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宇喜多秀家の辞世 戦国百人一首58

宇喜多秀家(1572-1655)は、元服の時に豊臣秀吉から「秀」の字を与えられて名を「秀家」とした。
秀吉に寵愛され、豊臣政権下では五大老の一人だった。

宇喜多秀家 58

み菩薩の 種を植えけん この寺へ みどりの松の 一あらぬ限りは

悟りを開くきっかけになったこの寺に、この松は存在し続けてくれるのだろうか

外様だったにもかかわらず、豊臣秀吉の一門衆としての扱いを受け、厚遇された宇喜多秀家。
備前国の岡山城主であり、57万4千石を領する大名だった。

関ヶ原の戦いでは、西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らと共に西軍の主力となった。
西軍の中では最大の1万7千の兵を率いて東軍の福島正則隊と激突。
しかし、同じ西軍だった小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、宇喜多の隊も壊滅してしまった。

関ヶ原の戦い後、宇喜多家は徳川家康によって改易され、秀家は逃亡した。
各地を転々としながら、一時は薩摩国の島津氏を頼っていたが、居場所が判明すると身柄が家康に引き渡された。
死罪はまぬがれるが、八丈島へ流罪となってしまった。

流人生活は不自由なもので、
・嵐のために八丈島に待避していた福島正則の家臣に酒を恵まれる
・八丈島の代官におにぎりを御馳走になる
などの逸話もある。
それでももともとのステータスが高かったので、他の流人よりは厚遇されていたということだ。

1616年には秀家の刑は解かれることとなった。
10万石の大名へ復帰する話もあったが、秀家はそれを断り、この島で50年を過ごして生涯を終えた。享年84。

彼は、既に薩摩に逃れていたころ出家し、「成元」さらに「休復」と号していた。
さらに八丈島では苗字を「宇喜多」から「浮田」に変え、号を「久福」と改めている。
八丈島を所領とし、島で宗福寺の住職を兼ねている源(みなもと)家との交流を楽しんだ記録が残っている。
そしてその宗福寺が宇喜多家の菩提寺である。

この歌が寺に残っている。

御菩提のたねや植(うえ)けん此(この)寺にみのりの秋ぞ久しかるべき

最初に挙げた辞世に似ているが、辞世の歌も、この宗福寺に生える松を見ながら詠んだものなのだろう。