「光る君へ」うろ覚えレビュー《第38話:まぶしき闇》
今や敦康親王と敦成親王による東宮(将来天皇となる皇太子)争いがストーリーの中心だ。それは、今は定子Vs彰子であり、伊周Vs道長であり、清少納言Vs紫式部につながる。
■ナゴンの本音
37話の終わりから視聴者を引っ張ってきたナゴン(清少納言)と藤式部(まひろ)との緊迫感ある対決。
とはいっても、好戦的なのはナゴンだけである。
「『源氏の物語』読みましたで。引き込まれましたわ」
「じっとり考えてはって、根がお暗いでんなぁ」
現代でも紫式部と清少納言との性格の違いを対比させるときによく言われるのが、清少納言は「サバサバ」で、紫式部が「根暗」という説である。
あたしにはドラマのナゴンが「サバサバ」には見えないが、同意する方も多いかと思う。
さらにナゴンは核心へと切り込んでいく。
「帝の記憶から『枕草子』の記憶を消してくれと左大臣はんからたのまれはったん?」
「あたしは腹を立てておりますねん」
「まひろさまの源氏の物語を恨んでおりますねん」
だが、ナゴンは光源氏の性格については文句を言ったが、本人自体が最初に「引き込まれましてん」と述べているように、物語としての出来栄えや質については批判していない。
そして光の君の物語のせいでいかに『枕草子』が霞んでしまったか、を認めた形だ。ナゴンが文句を言えば言うほど、敗北を認めるように見えた。
ああ、つらい。あたしは見ていてつらかったよ。
そもそも比較したり争ったりする作品たちではないのに。
彼女がムキになる一方、それらを冷静に受け止めるまひろ。
それだけでもう勝負はついてしまった感がある。
ドラマは好きだが、こういう安い仕上げ方になってしまったイージーな紫式部対清少納言には異議を唱えたい。
もっと清少納言を大事にしてほしかったなぁ。
彼女はもっと複雑なはずだった。深くて複雑ですよ。
そして凛としていたんですよ。
■伊周の凋落
もう伊周が止まらない。完全にあっちの世界に行ってしまった彼。
美男で華のある人だっただけに(史実でもそうだとされている)、このギャップが大きく、センセーショナルだ。
もう呪詛しかしてません、この人。
さらに、伊周が登場する場面ではことごとく照明が2、3段階落とされて、彼は文字通り闇落ちしている。
お気の毒なのは敦康親王だ。再度の懐妊で中宮彰子が土御門殿へと里帰りしたため、親王は内裏を離れて伊周の屋敷で世話になることとなった。
でも、伊周は闇落ちなので、敦康親王がいる部屋も暗い。
そんな薄暗い屋敷で、敦康親王の眼の前に登場してきた伊周がこう言った。
「あ”づや”ずざま”わ”ー、わ”だじがお”ばぼり”い”だじま”ずざがい”に”ー、どう”がごあ”ん”じん”ぐだざい”ま”ぜぇー”」
(訳:敦康さまは、私がお守りいたしますさかいにどうかご安心くださいませぇ)
話す言葉全てに濁音が付き、地を這うような、どこか老人めいた喋り方で、「どうかご安心を」と言われても。
敦康親王も「なんかへんな伯父さん・・・」と困惑するしかない。
伊周の弟である隆家が心配して伊周のもとにやってきたときも、伊周は呪い祭りの真っ最中であった。
一瞬振り返った伊周は、隆家が咎めるのも耳に入らないのか、あっちの世界に行ってしまった顔のまま、呪詛している道長の形代を口で噛み割る始末。
伊周よ。もう戻れないのか。
■道長の本性
38話のタイトルは「まぶしき闇」である。
最近は『光る君へ』のあっちこっちで闇が湧いている。
これにはいろいろな解釈があるのかもしれないが、タイトルに謳われている「まぶしき闇」とは、その中心となる闇とは、藤原道長の心の闇のことを言ってるとあたしは思うのだが、みなさんもそうですか。
道長一家は、順調だ。
道長の嫡男・頼通もいいかんじに育ってるし、父の引き上げで出世もしている。藤原実資にちょっとおべんちゃらを言ったため、実資が少し調子にのってさまざまな行事について講釈を垂れようとして、引いてしまったが。
さて、道長の闇である。
38話では、息子の藤原頼通を呼び、こう言った。
「わしらが成すことはなぁ、敦成さまを次の東宮に成したてまつることや。そんで、一刻も早う御即位いただくことなんや」
帝となる人は、道長一家を信頼してくれる帝であって欲しいとも彼は言った。そして続ける。
「それは敦成さまやで」
ここでセンセーショナルな感じでパイプオルガンぽい「びやああああん」というBGMが。
聞きましたよ、はっきりとね。パイプオルガンの音を道長の言葉を。
すでに道長は、敦成親王の東宮推しプランを藤式部に口を滑らしたことがあるけど、よい子の視聴者くんたちは覚えてるよねっ。
さらに38話では、道長は内裏で敦康親王が中宮彰子の膝で甘えるのを目撃し、胸騒ぎを覚えていた。彼が読んだ『源氏物語』の一節にある、光源氏が幼いながらも亡き母親に似ているとされる藤壺を慕っていく様子と重なったようである。彼の娘の彰子を巡る朝廷でのスキャンダルは避けなければならない。父親である道長が、心配した点も分からなくはない。
だから、それはええのよ。別に。
他所の子を押しのけて自分の孫を将来の天皇にと思う気持ちも、それを力任せに実行することも。
権力ある人は自分勝手だし、強欲だし、そんなことは珍しくない。
自分の権力をさらに強固にするために、ありとあらゆる手段を尽くす。
それが権力を持つ歴史上の人物ってもんよ。
だけど、そのあとがいけない。
道長は、とっても卑怯なセリフを頼通に放ったのだ。
「家の繁栄のため、ちゃうよ」
いやいやいや。そうでしょう!
どんなえげつないことも、金と権力とそれ以外のすべてを動員して実行するんだよ、それが藤原道長でしょうが。
他人の目を気にしてどうするのだ。藤原道長でしょう?
道長は、この期に及んでまだ善人ぶるらしい。
っていうか、ドラマとして意図して道長が本当に善人に描かれていたとしたら、それは無理筋だと言いたい。
頼通が何かを言う前に道長が先回りした、この言い訳。
おそらく、自分の孫を優先させて東宮に据えることに対し、道長は後ろめたさを感じてはいるのだ。
道長は頼通を見つめ、語っているようで、実はそうではない。
道長はテレビを通して日本全国津々浦々のお茶の間のみなさんに、自分が悪人ではないことを言い訳し、弁明していたのだ。
ええ、あたしには見えますとも。
せっかくの権力者なんだから、藤原兼家ほど悪役になればいいのにぃ。
がっかりである。
いい人ぶってはいても、権力者で、高貴な家の、氏長者であるまぶしいほどの立場にある藤原道長の心の中にはどす黒い野望が渦巻いていたのだ。
だから「まぶしき闇」なのではないか、そんなことを考えさせられた38話のタイトルだった。
■清涼剤はいずこに
37話で登場した双寿丸です。
あれだけ意味ありげに登場して、視聴者をあおり、あとを引くような気持ちにさせておいて、なんと38話には登場しないという放置プレイ。
高度な荒業ですね。
あたしの気持ちは宙ぶらりんである。
だが一方、38話では彰子に仕える女房たちの長である宮の宣旨がとてもよい仕事をしてくれた。
月を見ながら考えにふける藤式部に彼女が声をかけるシーンだ。
「(宮仕えは、帝の御ため、中宮さまの御ためちゃうやろ、ホンマは)生きるためやろ。物語を書くんは里でも書けるやん。暮らしのためやろ」
「あんさん、子もおったやろ。うまくいってへんのかいな」
言葉を繕う藤式部に対し、ズバズバ本当のところを突いてくれた。
宮の宣旨が持つこの視点は、ことあるごとに一条天皇や中宮彰子を手放しで(心にもなく)褒めちぎる藤式部や、ストレートな物言いが持ち味でありながら、亡き定子を盲目的に称え続け、一条天皇を恐れ崇め続けるナゴンにもないものだ。
図星を突かれたまひろに対し、宮の宣旨が続けて言う。
「あてもそれなりに世のことは勉強させてもろてきたさかいにな」
新しく女房グループに参加した和泉式部のベタベタ感でもなく、左衛門の内侍のジェラシーいっぱいのキリキリ感もない。
さすがは女房グループのボス・宮の宣旨。
我々は、ともすると学校の古典の授業の中で名前を聞いたような、紫式部やその他の女流文学に貢献した女房たち以外の宮廷女性たちを軽んじてしまいがちだ。
だが、それは正しい平安朝の理解ではないようだ。
役割を心得て粛々と後宮を回し続ける賢い女性たちは他にもいた。
ドラマの宮の宣旨というキャラクターは、「一服の清涼剤」とは違うかもしれないが、虚飾だらけの内裏にあって、身の程を知り、地に足のついた賢明な人物の一面を見せてもらったような気にさせてくれた。