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市の辞世 戦国百人一首78

「お市の方」と呼ばれた市(1547?-1583)は、織田信長の妹、そして浅井長政や柴田勝家の正妻となった戦国時代の女性だ。
彼女は信長の妹だとされることが多いが、実は現在のところ信長と同じ両親(織田信秀、土田御前)の娘だという100%の確証はなく、いとこだった可能性もある。聡明で、戦国一の美女だったと伝わる。

78 市

さらぬだにうちねるほども夏の夜も別れをさそふほととぎすかな
(ただでさえ寝る間もないほど夏の夜は短いというのに、
 別れを急かすのですね、ほととぎすは)

彼女の辞世としては、

さらぬだに打ぬる程も夏の夜の夢路をさそうほととぎすかな

のバージョンもある。

兄(とここでは言っておこう)の織田信長が本能寺の変で自害した翌年に彼女も自害した。

1568年に市が浅井長政(あざいながまさ)に正妻として輿入れし、織田家と浅井家は同盟関係となった。信長は長政にとって義兄となったわけだ。
長政と市の仲は睦まじく、2人の間に3人の娘・茶々(豊臣秀吉の側室)、初(京極高次の正室)、江(徳川秀忠の正室)が授かった。

さて、1570年。当時信長は第15代将軍・足利義昭を助けて室町政権を立て直していたところだったが、将軍義昭による再三の上洛命令を断る朝倉義景に対して、義昭の武力担当だった信長がついに兵を挙げた。
実は浅井家と織田家の間では、「朝倉とは戦をしない」ことが条件で同盟が結ばれていた。それを無視した出兵だったのだ。
織田家の同盟国である浅井家ではあったが、父の代から深い関係のあった朝倉家を裏切ることはできなかった。
そして浅井長政ら浅井家は、朝倉家と組んで織田家と対立したのである。

市にしてみれば、自分の兄が同盟を裏切って浅井家と繋がっていた朝倉家を攻め、夫はそれに対して兄を裏切って、兄の織田家と夫の浅井家が激突することになったのだった。

1573年、浅井の小谷城は信長軍によって陥落し、浅井長政と父・浅井久政の2人は自害した。市と3人の娘たちは助け出され、その後、彼女たちは織田家の庇護を受けて暮らすことになった。

ところが1582年、織田信長が亡くなった。
織田家のその後について話し合った同年の清洲会議の承諾を経て、市は3人の娘を連れて織田家の重鎮だった柴田勝家と再婚したのである。

しかしその後、羽柴秀吉と対立した柴田勝家は、1583年に賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた。味方の軍勢による裏切りが起きて軍全体の士気は下がり、退却するしかなかった勝家は、越前の北ノ庄城に戻るが、秀吉軍に包囲され自害したのだ。そしてその時、妻だった市も共に自害した。

自害の際、市は夫の勝家と共に辞世を詠んだ。
歌に詠まれた「ほととぎす」には、「賤(しず)の田長(たをさ)」という別名があり、これは夏を表わす季語でもある。
その名の音が変化して「しで=死出」となり、冥土にある死出の山を越えてくる鳥という意味も持つのだ。

彼女が最期の歌にほととぎすを登場させたのは、
「賤ヶ岳の戦い」→「賤の田長」→「死出の田長」→「ほととぎす」
の連想があったのではないだろうか。
繊細な女性らしさと共に、ほととぎすの背後の意味をうまく入れ込んだ聡明さが見られる市らしい歌である。
「ほととぎす」の意味を知ってこそ、本当の意味を知る辞世なのだ。