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誰も見ていなくても私が私を見ている








私たちは
制限のない思考が出来る素晴らしさを持っている

心のずっと奥深いところには
慈悲や慈愛の流れが滾々とある


それを源ということもできるのかも知れない…

しかし、
私は 言語化しながらも
言葉に縛られないところ、概念を超えたところから
言葉(意)を発したいと思っている


言語化をする前に
すでに私たちは言語化する前の言葉(意)を
感触として知っている

それはふとした時に感じる
何かしらの
“懐かしさ" や
“思いを馳せる"こととして 感じとっている

言語化する前にある “ちょっとした間"

このスペースにあるのは記憶であり
アカシックレコードとも言えるのかも知れない


言語化される前にある “間"

ただ分かるといったことが在るスペース

このスペース
領域を、観察的視点または概念化される前の視点、解釈を持たないところから集中し、捉えることが明晰性であるのではないだろうか…


本来の視点とは、概念のない視点

源からの眺め




私たちは、誰かが困っていたら悲しい気持ちにもなるし、助けたいと思う

その原点は共感




共感は
無意識的な祈りでもあるのではないだろうか

共感の元にあるのは慈悲と慈愛

慈愛と慈愛は
概念ではなく源ではないだろうか

私たちは源を知っている

だからこそ
私たちは 方向性があるものに対して迷いが生じるのではないだろうか


ただ在ること 自身に対して気づき続けることには
一切の方向性を持たない

永遠性を知っている自己

誰も見ていなくても私が私を見ている…

私は私に気づき続けたい

心の奥深いところにある源泉に触れながら
今 生かされ生きていることを感じたい

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