息をするように本を読む119〜薬丸岳「天使のナイフ」〜
少年による凶悪犯罪がニュース界隈を騒がせると、必ず論争になるのが少年法厳罰化の是非である。
少年法とは、少年が起こした刑事事件についての処理方法を定めた法律。
旧少年法(1923年制定)を基盤として、1948年にGHQの指導の下、改めて制定された。
その後ずっとアンタッチャブルのままだったが、ある事件がきっかけとなり、2000年を皮切りに数回の改正を重ねて現在に至る。が、その趣旨は変わっていない。
曰く、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う、と定められている。
逮捕、ではなく、補導。
懲罰、ではなく、保護処分と教育。
少年法では、まだ成長途上で環境に左右されやすい未熟な少年たちは適切な教育的働きかけによっていくらでも更生の可能性があり、その芽を摘んではならない、とうたわれている。少年法が目指すものについて書かれた資料には『可塑性』という言葉が何度も出てくる。少年には、粘土のように失敗しても何度もやり直せる、その可能性があるということだ。
確かにそのとおりなのだろう。
しかし、この文言の中には、その少年の非行によって傷ついた被害者たちに対する慮りは見られない。
この物語は、4つになる娘と2人暮らしをしている桧山が主人公。
桧山の妻、祥子は3年半前に亡くなった。
3人組の強盗に襲われ、5ヶ月の娘の目の前で、犯人にナイフで切られた頚動脈の傷からの大量出血によって失血死したのだ。
やがて捕まった犯人たちは、逮捕されて裁かれ罰せられる、ことはなかった。彼らはみな、中学1年生、14歳未満だったから。
手厚い少年法に守られた3人の少年たちは、実名が明らかにされることもなく、刑務所に収監されることもなく、数年したら場合によっては名前も変えて、世の中に戻ってくる。もちろん、前科もつかない。
そして、被害者家族には、事件や犯人の少年たちのその後の詳細は知らされることはない。
全ては、少年たちの更生の妨げになるという理由で。
犯人たちへの憎しみだけでなく、そんな理不尽と、そして、センセーショナルなニュースを求めて近づいてくる報道に対する、忸怩たる思いと心の奥底に渦巻く怒り、最愛の妻を突然に亡くした悲しみの中で、桧山の3年半は過ぎた。
その苦しい年月、桧山の心を支えたのは、ただ愛妻の忘れ形見、愛美の存在だけだった。
ある日、いつものように娘を保育園に送り、仕事場に行くと、思わぬ来客があった。
3年半前、妻の事件を担当した刑事だ。
今さら何の用かと訝る桧山に、刑事が近隣の公園で殺人事件があったこと、そして、被害者が、少年B、つまり、桧山の妻を殺した3人組の少年たちのひとりであることを告げる。
実は、以前は完全に秘匿されていた犯人少年たちの氏名居住地等の情報は、2000年の改正少年法により、被害者及びその家族が家裁に申請すれば、ある程度までは閲覧謄写ができるようになった。
当初民事訴追を考えていた桧山は、改正少年法が施行されるとすぐに彼らの情報閲覧を申請したのだ。そのことをきっちりと警察は確認していた。
つまり、少年Bたちに恨みを持ち、法改正により少年たちの情報を得た桧山は、最有力容疑者ということになるのだった。
ここからは、息もつかせぬ展開で次から次へと事件がおこり、そのたびに新しい事実が突如として目の前に投げ出され、桧山も読者も振り回される。
今まで、こうだと信じていた事柄がひっくり返り、どんどんとカードが裏返っていく。
正直、こんなに事件がてんこ盛り、それが次々に繋がっていくって、あり得るかな、とはちょっと思わないでもないが、そこは、まあ、小説ということで。
物語の中で繰り返し問われるのは、更生とは何か、ということ。
罪を犯したのち、自分の人生を軌道修正して、真っ当な道筋に乗り(もちろんそのための努力は自分によるものでもあるのだけど)、平穏無事な人生を送ることが、更生なのだろうか。
被害者は、被害者たちの人生は、もう修正することすら叶わないのに。
被害者本人やその家族たちにはとても納得のできることではないだろう。
私がその立場になっても、同じだと思う。
が、しかし、たとえば、自分が、加害者側に立つ者だったら、と考える。
万が一そうなったら、少年法を見る目はおそらく、今とは違うものになるだろう。
甘いと言われようが、利己的だと言われようが、私は、そのときの私自身の判断や思いに自信が持てない。身内可愛さに流れることを、止められるとは思えない。
人は弱い。そして、どちらの立場にも、なってみなければわからない。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
桧山の愛娘、愛美ちゃん(思わず知らず、ちゃん付けを、してしまう)が、とにかくもう、めちゃくちゃ可愛い。ともすれば、重苦しく辛い話になってしまうこの物語の中で、彼女の存在が桧山だけでなく、読者も救ってくれる気がする。
どんなときもいつの時代も、子どもの未来は曇りなく輝いているべきだ。
それを用意してやるのは、大人の仕事なのだけど。
なかなか上手くいかないのは、どうしてなのだろう。