「もう十分やっていると思いますよ」 "You're already doing enough."
「上岡さんはもう十分やっていると思いますよ。」
そう言ってくれたのは、高校三年生のときの担任の先生だった。
保護者面談での母への言葉だった。
高校二年生の後半から、私は登校拒否をしていた。きっと色々理由はあったのだろうけど、自覚していたものは摂食障害と、人が沢山いるところにいられなくなっていたこと。(生徒数の多い高校だったので、体育館に全校生徒が集まるときなどは、めまいと動悸がした。)
「このまま高校の先生たちが言うように、四年制大学に進んで、仕事に就くだけが幸せになる道とは思えない。」
「このままコンベアーベルトに乗せられて、気が付いたら社会の歯車の一部になって、抜け出せないなんてことになるんじゃないか。」
「もちろんこの世界の一員として私なりの貢献はしたい。でも私が本当に学びたいことは、どの大学のパンフレットにも書いていない。」
「もう少しゆっくり考えたい。でも学校ではその時間は与えてくれない。」
クラスメイトの中には「とりあえず大学に行ってから、何するか考える」という子もいて、「そうか、そういう手もあるのか」と思った。
「でも、大学はお金がかかる。はっきりした目標がない状態で入って、親に無駄なお金を使わせるわけにはいかない。」
立ち止まる必要があったのだろう。それが登校拒否という形で現れていたのだと思う。
でも学校に行っていないことに引け目や罪悪感も感じていて、摂食障害も辛くて、大好きな両親にも心配させて、「普通」じゃない自分を責めて、毎日のように泣いていた。
「明日こそは学校に行こう!」と決意を胸に床に入る。
起きたら「今日は学校に行くぞ!」と自分を奮い立たせ、制服に着がえ、朝食を食べ、行く用意するのだけど、いざ玄関に立つと、立ちすくみ、ドアノブを回せない。
玄関にうずくまる私を横目に、弟が中学校に出かけていく。弟にとっては、「玄関でうずくまる姉」の図は、もう見慣れた光景だ。
「弟が玄関を開けるときに一緒に出ていこう。名案だ。よし、そうしよう。」
でも弟の背中越しの外の世界を垣間見て、ひるんでしまう。またうずくまる。
情けなくて泣けてくる。「なんで自分はこんなことになってるんだろう。」
父はその頃隣の県に単身赴任で、同じ屋根の下では暮らしておらず、週末は家族の顔を見に帰ってきてくれていた。
母も父もそんな私を責めたてることもなく、寄り添ってくれ、母は私が持っていくかどうかも分からないお弁当を毎朝早く起きて、作ってくれていた。
摂食障害まっただ中の私のお弁当箱は、園児が使うものだった。
「これで足りるの?」
と母が一度聞いたことがある。
「足りる!」私はそれ以上聞かないでと言わんばかりに言い放った。
きっと「色々言って食べなくなるよりはまし」とでも思ったのか、母はその小さなお弁当箱に入るだけの栄養のある食べ物と愛をぎゅうぎゅうに詰め込んでくれた。(それだけはいつも完食していた。)
(ちなみにそのお弁当箱を、私はマウイに持ってきている。普段料理の残り物などを保存するため、使っている。)
時々玄関の外に出ることに成功し、鉛のように感じる自転車のペダルを漕いで、片道自転車で20分の道のりの半分ほど行って、どうしてもそれ以上進めず、途中で情けなさに泣きながら帰ってくることもあった。母はその度に高校に電話をして、「体調が芳しくないので、お休みします。」と連絡をしてくれていた。(しないと無断欠席になるので。)
ある日は何とか学校まで辿り着くことができたのだけど、足はペダルを漕ぐことをやめず、そのまま校門を通り過ぎてしまった。「ありゃりゃ」と思ったけど、もう時は遅し。あまりにも気持ちの良い天気だったのだ。あんなに外の空気を気持ちよく感じたのは久しぶりだったので、そのまま高知市の鏡川沿いに伊野の方へ向かって走り、手頃な土手の原っぱを見つけて、そこに寝そべった。
季節はいつだったのだろう。覚えていない。私は花粉症もちだけど、くしゃみをしていなかったから、春ではなかったのだろう。あまりにも青空がきれいで、風が気持ち良くて、花が咲いていて、仰向けで雲が流れていくのを見ていたら、そのまま空に吸い込まれていくような気がした。草の匂いが心を落ち着かせてくれた。
その日遅刻はしたものの、学校には行けたのだ。
担任の外裏先生は、髪を短くまとめてある、その年代の女性にしては背の高い、国語の先生であった。先生のきれいな字を今でも覚えている。「はらい」、「はね」、「とめ」がしっかりと見受けられる一文字一文字が、黒板に書かれていく様を見るのが好きだった。それだけでも心が落ち着いた。
外裏先生は好きだったけれど、三年生になっても相変わらず私は登校拒否をしていた。勉強は好きだった。ありがたいことにステキな友達もいたし、いじめがあったわけでもない。ただ、どうしても行けなかった。
当時のクラスメイトのみんなに申し訳なかったなと思うことは、卒業アルバムのためのクラス毎の写真撮影だ。欠席者がいるクラスは、撮影が延期されるのだ。きっと一生残る写真のため、みんな髪の毛をセットしたり、それなりに普段よりも気を使って登校していた子がほとんどだと思う。それなのに私が欠席のため、延期されるのだ。それが一回ではなく二回ほどあったらしく、それを後で知ったとき、申し訳ないことをしたと思った。
私は「きっと写真の右上か左上の方に自分の顔だけ載るのだろう」くらいに思っていたのだ。「それも目立ってイヤだけど、学校に行けないのだから仕方ない」と。
万が一、高知県立高知西高校(2001年卒業)の、外裏先生のクラスであった方がこれを読まれていたとしたら、この場を借りて「何度も空振りさせて、申し訳ありませんでした」とお伝えしたい。
高校生活も残りあと六ヶ月というところで、「高校を退学しよう」と決断した。毎朝の葛藤に疲労困憊していた。大学に行きたくなったら、大検を取ろうと思っていた。
そんなとき、私が通っていたスガ・ジャズダンス・スタジオの國友須賀先生に、「あかり、あとちょっとやんか。高校終わったら、マウイにおいで。そのかわり、高校卒業しておいで。」と言われた。
「マウイ」
どこにあるかさえ知らなかった。
でも、なぜか「そうしよう!」と思ったのだ。
それから私は目の前に人参を吊らされた馬のごとく、マウイを目の前に吊らして、ただただ「私は卒業したらマウイに行くんだ」ということだけを考えて、何とか高校を卒業した。
今日のところは結果だけ伝えると、マウイ島は私の摂食障害を癒やしてくれた。あのとき、マウイに来て本当によかったと思う。
(高校のときの話に戻ります。)
卒業すると決めたものの、そのためにはあと一踏ん張りも、二踏ん張りも必要だった。成績は大丈夫だったのだが、出席日数が危うかった。
そんな私のために、外裏先生は一緒に教科毎の出席日数を計算してくださった。「この教科はあと4回休めるけど、この教科はもう休めませんよ。」などと教えてくださった。
翌日の時間割を毎晩念入りに見て、もう休めないと言われた教科がある日は、這ってでも行くつもりだった。
どんなに大変でも行こうと思えるようになっても、学校に行くこと自体が楽になったわけではなかった。どうしても行かないといけないのに玄関で足が凍り付いてしまう日など、母はタクシーを呼んだ。
そうなったら、せっかくタクシーが来ているのだから、家の前の道路までは出て行った。そして何とか後部座席に自分の重い体と心を押し込んだ。タクシーのドアが自動で良かった。
前述した通り、父は単身赴任で家にはいないし、母は車の運転ができないのだ。親にタクシー代を払わせていることに罪悪感を感じ、タクシーの後席でうなだれている私を、運転手は「何らかの理由で自分で登校できない子」とでも思っただろうか。
そして欠席を許されていない教科だけ取って、帰ってきた日などもあった。バスや電車に乗れなくなっていたので、帰りもタクシーだ。
早退するためには、担任の先生の許可がいる。
職員室にいる外裏先生に、「早退したいのですが」と伝えに行くと、先生は何も聞かずに「頭痛かしらね」と理由を考えて書いてくれた。ありがたかった。二年生のときは、早退理由を色々聞かれたものだ。頭痛ではないのに頭痛と言うことに引け目を感じ、でも「家に帰りたいです」では通らないので、「頭痛で」とか「腹痛で」と嘘をつくのがいやだった。
外裏先生は、そんな気持ちさえも見据えたように、根掘り葉掘り聞かずに、当たり障りのない理由を書いて心の荷を一緒に背負ってくれた。
一度は、素直に「今日はもう限界です」と伝えたことがあったような気がするが、それは私の記憶違いかもしれない。とにかく、そう言っても分かってくれるような信頼を、私は外裏先生に寄せていたことは確かだ。もし本当に言ったとしても、きっと先生は「はい、分かりました」と言って早退届の紙に記入してくれたことだろう。
そんな中、母と外裏先生の保護者面談があった。そして外裏先生は母に、
と言ってくれたのだ。
そして高校退学も思慮に入れていたことを伝えた母に、
と進学校の先生にあるまじきことをおっしゃったらしい。ハハハ。
(もっと好きになりました、外裏先生)
家に帰ってきた母がそれを伝えてくれたとき、私は泣いた。うれし泣きのような、ありがた泣きだった。心が温かくなって泣いたのは久しぶりだった。
「私を見てくれている人がいる」
そう感じた。
高校を卒業できたのは、外裏先生のおかげだと言っても過言ではない。(そしてマウイ行きを、「一度日本を出てみなさい」と提案してくださった國友須賀先生のおかげ。)
他にも熱心なスクールカウンセラーの先生などいらっしゃたのだけど、外裏先生は淡々としていたのが良かった。「生徒の助けになるぞ!」と意気込んでいないところが、もう既にいっぱいいっぱいの私には強すぎない薬だった。
外裏先生の淡々とした中に溢れる優しさというのを私はしっかり感じたし、下手に手を回しすぎず、放任するところは放任して、でもしっかりと介入するべきというときは手を差し伸べながら見守ってくださった。
後日談として、外裏先生には2020年に急にご連絡を差し上げたくなり、卒業名簿にあったご住所にお手紙を書いた。何でもっと早く手紙を書こうと思わなかったのだろうと思いながら。先生がご健在であることを祈りながら。
そしたら、たまたま私の誕生日にお返事のお電話があった。何よりもの誕生日プレゼントだった。
「外裏先生、私が今ここにこうしていられるのも、先生のおかげです。
『もう十分やっている』は私のお守りのような言葉です。
先生のように、ちゃんと人を見て、『あなたはもう十分やってるよ。』と言ってさしあげられる人になれるよう、精進してまいります。」
と伝えられて、本当によかったと思っている。
(English)
"Miss Ueoka is already doing enough,"
said Mrs. Sotoura, who was my senior year's homeroom teacher.
She said it to my mom at a parent-teacher conference.
Halfway through my junior year, I was unable to go to school. There were probably a few reasons, and what I was aware of then was I had eating disorders and was not able to be around many people. (The high school I went to had 900 to 1,000 students, and once a week or so, we had a school assembly at the gym. Surrounded by that many people, I felt dizzy, and my heart palpitated faster.)
I was thinking:
"I don't think going to a four-year university and getting a good job is the only way to happiness like the teachers say."
"I wonder what would happen if I listened to them and followed their guidance without giving it any thought. Would I become one of society's well-oiled gears that I couldn't escape from?"
"Of course, I wanted to contribute to society even in a small way, but what I wanted to study did not seem to be written in any of the college brochures."
"I wish I could take time to think more, but the school doesn't give us any time to think by bombarding us with so many quizzes and exams."
Some classmates said, "I'll go to a college and then think more about what I want to do."
"I see, and that's one way to go about," I thought.
"But going to a college or university costs money, and I don't want to waste my parents' money by going without a clear reason."
I guess I needed to slow down, and the desire to do so seemed to appear as my inability to attend school, although I genuinely tried to go.
I cried every day, feeling badly - and guilty - for not going to school, dealing with eating disorders, making my dear parents worry, and blaming myself for not being "normal."
At night, I went to bed thinking, "Tomorrow, I will go to school!"
When I woke up, I said to myself, "Alright, here I go!" I changed into my school uniform, ate breakfast, and got ready. However, when I stood in front of the door, my legs got fixated, and my hand would not turn the doorknob.
My younger brother left for his middle school, passing by me who was crouching down. For him, my frozen stance was a familiar scene.
"Oh, I know! When he opens the door, I'll follow him and go out with him. Oh, it's a good idea. Yeah. I'll do that!"
But one glimpse of the world over his shoulder, and I winced and froze.
I sobbed, feeling pathetic, "What am I doing? What has become of me?"
My dad was living in the next prefecture on a company job assignment. (It's common in Japan for the rest of the family to stay behind and let children finish school - or for other reasons.) He came home over the weekend to see us.
My parents did not give me a hard time and held the space for me. My mom woke up early every morning to make lunch for me, although there was no guarantee that I would take it to school.
My lunch box was the size of a preschooler.
"Would this be big enough?"
my mom asked me once.
"Yes!" I answered adamantly as if to disallow any further inquiries from her.
Probably, she thought it was better than quarreling and making me not eat at all, so she packed as much nutritious food and love as possible in that small lunch box every morning. (I ate the whole thing every day even though I didn't eat much else.)
By the way, I brought the lunch box to Maui; I use it regularly to store leftover food and such.
Occasionally, I managed to get outside the door. I pushed down the bicycle pedal, which felt heavy as lead, and rode about halfway to school. Each way was about 20 minutes. When I couldn't go any farther, I turned around and came home crying, feeling defeated.
Then my mom would call the high school to let them know I would be absent that day due to my not feeling well. (Otherwise, it would be recorded as absence without notice, and it would be a problem.)
I managed to get to the school one day, but my feet kept pushing the bicycle forward and passed the school gate. "Oopsie," I thought. It was too late. It was a beautiful day, and I hadn't felt that good breathing in the air. So, I kept riding the bicycle along the Kagami River of Kochi-city, heading toward Ino-town. I found a nice field on the river embankment and lay down.
I wonder what season it was; I don't remember. I had hay fever, but I wasn't sneezing, so I suspect it wasn't spring. The sky was so beautifully blue; the breeze felt amazing; the flowers were blooming; and the white clouds were drifting. I felt like merging into the sky, and the fragrance of the grass comforted me.
Though I was late, I made it to school that day.
My homeroom teacher, Mrs. Sotoura, was tall for the generation's females and kept her hair short, and she was a Japanese language teacher. I still clearly remember her beautiful handwriting. I loved watching her write letters on the blackboard, executing each stroke intentionally and naturally; it was almost a zen-like performing art. Watching it had a calming effect on me.
I liked her a lot, but I still couldn't bring myself to becoming a regular attendee in my senior year. I liked learning and studying. I had wonderful friends. I was not being bullied or teased. I just could not go.
To all of my classmates back then - there is one thing I want to apologize for. For the graduation album, each class had to take a class photo. I didn't know this back then, but the photoshoot was postponed to the next day when someone was absent. I bet that most everyone came to school after setting their hair nicely because the photo would remain for the rest of our lives. And it happened more than once, apparently.
I thought my face would be cropped and pasted on the corner of the group shot, which stands out even more, and I wasn't fond of the idea, but I accepted it as I couldn't go to school.
If anyone in the class of 2001, in Mrs. Sotoura's class, is reading this, please accept my apology for possibly messing up your best hair day.
With only six more months left in my senior year, I decided to drop out of high school. I was exhausted by the daily morning struggle, and I thought, "I would take the GED test when I know I want to go to college."
Around that time, Ms. Suga Kunitomo, the founder of Suga Jazz Dance Studio, said to me, "Akari, you're almost done with high school. Come to Maui when you're done. But graduate first."
"Maui…."
I didn't even know where it was.
But for some reason, I thought, "Okay, I will go to Maui!"
Since that day, Maui became the carrot dangling in front of me, and I managed to graduate.
For now, to make a long story short, Maui helped me heal my eating disorders. I am so glad I came here (Maui) at that time.
(Now, back to the last bit of my high school days.)
To graduate, my grades were fine, but my attendance was on edge. Mrs. Sotoura sat with me, calculated how many times I missed each class, and told me, "You can miss this subject four more times, but you cannot miss this one anymore."
At night, I carefully studied the next day's class schedule, and if there was any class I could not miss, I was determined to go even if I had to crawl.
Deciding to graduate didn't make going to school any easier. When my legs froze in front of the door on a day I had a class I could not miss, my mom called a taxi.
When a taxi arrived, I barely managed to walk out to the road in front of the house and push my heavy heart into the backseat - good thing the taxi door opened on its own.
As I mentioned earlier, my dad wasn't home during the weekdays, and my mom couldn't drive. I felt guilty for going to school by taxi and making my parents pay for it. Seeing a young girl dropping her head down in the cab, I wonder if the driver thought, "She must have some reason that she cannot go to school on her own." I felt embarrassed, but no driver asked me any insensitive questions.
Somedays, I came home after attending the class that I could not miss anymore. Since I could not ride a bus or train back then (due to the crowd phobia), I took a taxi home.
I had to get a teacher's permission slip to leave school early.
Whenever I went to the teacher's lounge to tell Mrs. Sotoura, "I'd like to leave early," she offered a reason, such as, "Headache?" and wrote it down before I responded without asking too many questions. I was thankful.
In my junior year, the homeroom teacher had asked me many questions. I didn't want to say, "I have a headache," but "I would like to go home" was not good enough. So, I had to say, "I have a headache" or "I have a stomachache." And I always felt badly for making things up.
Mrs. Sotoura, on the other hand, carried the burden with me as if she saw through my dilemma.
There was even a time when I honestly told her, "I've reached my limit for the day." Maybe, it's only in my imagination, and maybe I did not actually tell her so, but the point is that I felt comfortable telling her and trusted her that much. I'm sure she said, "Understood," and filled out the permission slip for me.
Around that time, the end of the year parent-teacher conference was held. That's when Mrs. Sotoura said to my mom,
"Miss Ueoka is already doing enough."
She even said, "I think it's a legitimate option," when my mom shared that I contemplated dropping out of high school.
It was not what a college-prep high school teacher would usually say (which made me like her even more).
"I know Miss Ueoka will find her way."
When my mom came home and told me what was said, I cried. It was happy tears… grateful tears. It has been a while since I cried because I was happy.
"There is someone who sees me."
It's no exaggeration to say it was Mrs. Sotoura who made it possible for me to graduate (and the late Suga Kunitomo who suggested me to step out of Japan).
There were other teachers at the school, like the passionate school counselor, but I liked the simplicity of Mrs. Sotoura's approach. If someone had come at me and said, "I will help you!" I'd have run away. It was too much or too strong of a medicine. I could feel Mrs. Sotoura's kindness and gentleness in her matter-of-fact manner; she wasn't too much. She did not disable me by helping too much. She watched her students with a delicate balance of distance and stepped in when we needed it.
In 2020, I felt the strong urge to get hold of her, so I wrote a letter to her by asking my parents to look up her address in the graduation album while regretting that I had not done so sooner. I hoped she was still around and had not moved.
Then, I received a call from her on my birthday, and it was the best birthday gift.
I am so glad that I was able to tell her:
"Mrs. Sotoura, it's because of you, I can be here in this way.
Your words, 'You are already doing enough,' has been my amulet.
I will do my best to become a person who truly 'sees' like you do and tell others, 'You're doing enough.'"
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