母というひと 番外編
心が、ちぐはぐになった。
友人や知人と会うのは楽しい、嬉しい。だけど、帰宅して一人になると激しく落ち込む。
先週くらいまで不安定な状態が続いていた。理由は母だ。
緊急入院
9月半ばを過ぎた、深夜0時。母が緊急入院した。精神病院に。
その日の夜8時くらいのこと。実家近くに住む兄に、父から緊急のSOSが入った。「すぐ来てくれ」と電話口で叫んでいる。飛んでいくと既に数名の警察官が到着しており、父を取り囲んで、母を病院へ入院させることに「今すぐ同意」するよう説得している最中だったそうだ。
警察官の説得はこうだった。
「これまでも同様のケースをたくさん見てきました。本人たちが大丈夫だと言うから帰ったら、直後に殺傷沙汰になって110番通報されるようなことも非常に多いんです。今日はそのような気配がある。このままでは私らは帰れません。今すぐ奥さんを入院させることに同意してください」
昨年暮れ、母は初めて父や自宅を忘れた。数十分間何も思い出せずに、(この人は誰かね? なんで私の世話を焼きよるんやろうか)と疑問に思いつつも、それを言葉にしようという気持ちすら起こらず、ぼうっとしていたらしい。
毎月の恒例となった実家宿泊で訪れた私に、母は筋力が落ち座位を保てなくなった体で、座椅子から滑り落ち、仰向けのままで振り向きもせずに「私はもうダメやわ」と訴えた。
その日から約半年で、見当識障害が一気に進行した。今では母の口から出る言葉の多くが支離滅裂だ。
数ヶ月前には隣のビルに入り込み、「誘拐されました。助けてください」と他家のチャイムを押したため、パトカーが駆けつける事態も引き起こしている。
徘徊して見知らぬ人に助けられたり、タクシーに無賃乗車をして交番に突き出されたりして、パトカーで連れられて帰ってきたことは何回あっただろう? おかげで交番勤務の巡査は全員、母の名前も顔もよく知っていた。
だからこそ、「今回の違い」に気づいてくださったのだろう。
父は、兄にも私にも、警察官が到着するまでに起きた出来事を頑として話そうとしない。
母の施設入所を拒んで「まだ俺が見る」と言い張っていた父が、突然「これ以上は無理だ」と言い出すくらいの事件は起きたはずなのだが。
子どもにみっともない姿を見せたがらない父のことだから、プライドが許さないのかもしれない。墓場まで持って行きたいなら、それでもいい。
故郷への思慕
母は昼も夜もなく毎日のように徘徊を繰り返した。強烈な帰宅願望に襲われて。外へ出ていく時の持ち物や服装はデタラメだ。パジャマのズボンを首にぐるぐる巻いていたこともある。
アルツハイマー型認知症の初期症状といわれる「見当識障害」は個人差の大きな症状だ。母の場合は、時間や今いる場所、人の名前を忘れ、人の顔を判別する能力を失った。
不思議なのは、「ここと全く同じ家がもう一軒ある。私の家はそっちじゃ」と言い張ることだ。自宅を飛び出しては「もうひとつの家」を探して迷子になり、疲れ果てて道に座り込んで通りかかった人に迷惑をかける。
徘徊が始まってからは、いつ母が家を出ていくかわからないため父も満足に眠れていなかった。
母の頭に残っているのは、生まれてから20数年を共に暮らした自分の母親と兄たちと姉の顔ばかり。
そして、「2度と戻りたくない」と眉をひそめながら話していた、狭くて古くて、ぼっとん便所のアンモニア臭がいつも漂う長屋の家をも恋しがる。
「もうひとつの家」が頭に浮かばない時は、そちらへ帰りたがって必死で歩く。
自分にさんざん暴力を振るった憎い兄たちへの憎悪を忘れ、結婚して60年一緒に暮らした自分の夫も自分が産んだ子どもたちも忘れて。
なんて不条理な症状だ。
なんて残酷な不安感なんだ。
昔の家なんてとっくに解体されているし、祖母も伯母も亡くなった。伯父たちは母が憎しみのあまり縁を切ったため生存確認すらできていない。
なのに今さら恋しがって、叶わない望みに向かって歩くしかないだなんて。
そして、思い出せないものが増えれば増えるほど、穴を埋めるように幻覚・幻聴と妄想、そして攻撃性が高まった。
今回もおそらく父への攻撃があって、警察官が仲裁に入ったものと推測する。
もう自宅には戻せない
母の入院承諾書の理由の欄には、「人に危害を加える恐れ」の項目にマルがつけられ、しばらくは隔離病棟に入れられて面会もできなかった。
面会謝絶が解けて、ガラス越しに母の顔を見たのは入院から2週間後だ。
そこには、初めて見る表情をした母がいた。
無邪気で可愛らしい笑顔。不安なんて微塵もない満面の笑み。
(薬効でこんなに変わるのか。これまでの処方がずれていたのではないか? 私がもっと通院に付き添って医師と話をして母の穏やかさを取り戻せていたら、いきなり精神病院に入れられて家族ともまともに会えないような事態は避けられたのかもしれない)。ぐるぐる、ぐるぐる思考がループした。
分厚いガラスに隔てられて声は聞こえない。
父に向けて、私に向けて、手をぺたんとガラスに押し当てては、私たちが手を重ね合わせるのをニコニコと待っている。
私も父も、涙を止められなかった。
入院先は救急対応の病院だ。法律で定められた3ヶ月を目処に退院しなくてはならないと説明があった。
「その後、お母さまをご自宅に戻されますか?」と看護師に聞かれ、私は首を振った。父の身の安全と健康を考えての答だった。
「退院と同時に施設へ移します」。家族会議で全員一致した意見だけれど、子どものように笑う母はあまりに邪気がなく、連れて帰らないという決断を下した心苦しさからはどうにも逃れられない。
施設入所を選択するとなると、両親の生活費は二重に必要となる。
実家のある場所は都心部近くで、周辺の施設は高額だ。父が示した費用で入所させるのは無理があった。
「その予算だと市外じゃないと難しいらしいよ」と看護師からの伝言をそのまま伝えると、父はあっさり頷いた。
「それでいい。俺も体がきついし、そんなに会いには行けん。お前たちに迷惑をかけないよう、遠くでいい」
父も大腸癌の手術以降、体力が落ちた。正直な気持ちだと受け止めた。
早晩、母は私たちを完全に忘れるだろう。ならば、家族が通いやすい場所に入所させることは重要ではない。
むしろ都心部にある実家エリアよりも、窓から山が近くに見えるような郊外のほうが母の精神には良いように思えた。少しでも、帰りたい故郷の景色に近い、緑の多い場所のほうが。
父の揺れ
なのに、面会時に穏やかな母の様子を見た父が、前言を撤回するように「正気に戻ったら連れて帰れないのか」と言い出した。
どうしても認知症の症状が理解できないようで、「病気だから治るんだろう?」と尋ねてくる。「萎縮した脳が機能を取り戻すことはないよ」と話すと、「そうか」と引き下がるのだが、また話が元に戻る。父にも少し認知症の兆候が見えてきた。
「だって母さんが不憫じゃないか」と、宥めても宥めても父が繰り返す中、残念な報せが入った。
母がまた暴れ始めたのだ。不穏のスイッチが入ったらしい。
帰宅願望が強くなって歩き回り、「警察に電話する」と言い出し、スタッフへの暴力行為が認められた。隔離室へ逆戻りだ。
その報告を父にすると、何かもぐもぐと話しづらそうにした後で、「いや実は、少し前に母さんに会いに行ったんだよ。そうしたら「帰りたい」「(帰宅するために)頑張るぞ」と言い出してな。俺の顔を見て里心がついたのかもしれん」と俯いた。
「やっぱり戻ってくるのは無理なのか」
それで、母の施設を私の住むエリアで探すことにした。諸手続きをメインで引き受けている私の利便性を優先させて欲しい、と少し前から父に提案していたのだが、口では「会いに行けなくて良い」と言いながらも本心は違っていたのだろう。「お前のところではさすがに遠い」と渋っていた。
しかし自分が面会に行ったところで、必ずしも母に良い刺激を与えられるわけではない現実を見て、抵抗する気を無くしたようだ。
それにしても、高齢の世代に多い「子どもに迷惑をかけないように遠くへ行く(遠くの墓へ入る)」という発想は、どこから出るのだろう?
遠ければ遠いほど、会いに行くほうは大変になるというのに。
母というひとは
あの日、警察に電話をしたのは母だそうだ。父を見知らぬ他人と思い込んだ母が「知らない男が家にいる。助けてくれ」と 110番した。そして家から追い出されたのは、父ではなく母だった……。
母は、母というひとは、そうやっていつも自分で自分を追い詰めるように生きてしまった。
楽になりたい。幸せになりたい。愛されたい。怖いことや嫌なものから離れたい。母の願いは強烈な欲求となり、満たしてしてくれない全ての相手を責めた。憎んだ。そして恐怖や嫌悪から逃げようと盲目的に行動して、墓穴を掘るのだ。
不幸も人生の課題も、逃げれば追いかけてくるものだ。
幸せになりたいのなら踏ん張って立ち向かうしかない。
それが1ミリも実行できないのが母だった。
家族が入院すると用事が山積する。騒動が起きた日からしばらく仕事と実家と母の病院の往復を繰り返していると、ある朝、どうにも起き上がれなくなった。
手足を動かすのも億劫なほど全身が重くて眠くて、眠くて。丸1日、食事もほとんど取らずに眠り続けて、やっと立ち上がれたのは翌朝だった。
スケジュール帳を開いて確認すると、まるまる3週間、休みなく動いていたようだ。
少し休もう、と頭を切り替えた矢先。
母の病院で新型コロナが発生した。
コロナ感染
入所先の希望エリア変更を病院に伝えたのは、10月中旬過ぎ。今から5日ほど前のことだ。新型コロナ発生の連絡を受けた電話で、約2ヶ月後に迫る退院に向けての意向確認として伝えた。
院内感染のスピードは早い。第一報では他科での発生と聞いたが、母の病棟に伝播したと連絡が届いたのが2日前。その翌日、つまり昨日には、母の陽性が確認された。
最初の連絡では、症状は熱発のみで食欲もあり元気とのことだったが、1日経過して、ついさっき「酸素が必要な状態になり、隔離室から治療室へ移りました」という急ぎの連絡が入った。
しかし母は、痛みや苦しさへの自覚症状も薄くなっている。十分な治療を行うために治療室へと移動したのに、「家へ帰る」と、点滴の管を引き抜いて歩き回ったらしい。
やむなく身体拘束の措置となった。
今から20年ほど前、私は母の延命を願った。
私の命の残り分を半分こして、母に与えてくださいと。
それを後悔した日々や、わずかな喜びの日々が脳裏に浮かぶが、不思議なことに感情が何も湧いてこない。
記憶は確かなのに色も音も薄く、遠くで静かに流れているだけだ。なぜだろう。
一言でいいから、母が心から「幸せ」と喜ぶ姿を見てみたかった。その願いは叶わないままだったが、私から願うことはもう何もない。
あとは母の「自力」が、自分をどうするのかを決めるだろう。
読んでくださった皆さまに心から感謝を。 電子書籍「我が家のお墓」、Amazon等で発売中です! 知ってるようで情報が少ないお墓の選び方。親子で話し合うきっかけにどうぞ^^ ※当サイト内の文章・画像の無断転載はご遠慮します。引用する際には引用の要件を守って下さい。