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母というひと-051

平凡と自称する母の、平凡とは言いづらい人生を綴っています。
宜しければ「母というひと-000」へどうぞ
001〜047話は、母の人生の<前提部>。
この051話から、<本編>と言える内容に入ります。

ある深夜のこと。
携帯に父からの着信が来た。

父が私に直接電話をしてくることは滅多になく、またあり得ない時間帯だったので、何かトラブルがあったのだとピンと来た。

「起きてるか」
「今寝ようとしてたとこ。どうしたの」

父は、元新聞記者という仕事柄が影響したのか、方言を一切使わない。
私もあちこちの方言が混ざったハイブリッドだし、東京から戻ったばかりで地元の方言が少し話しづらくなっていたので、父との会話は標準語だった。

「お前さん(父は子供たちにこう呼びかける)にちょっと頼みがあってな」
「うん?」
「ちょっと話しにくい内容なんだが…
 その、母さんがな、父さんが浮気をしてると勘違いしてんだよ」
「え?」
「いやしてないよ俺は!しかし母さんは思い込んでしまって話を聞かんのだ。あの性格だから、分かるだろう?」
「ああ、まあね」

父の声は、そう悪びれてはいなかった。バツが悪そうではあるが。
父の言う「あの性格」とは、思い込みが激しく、他人の意見を聞かない母の極端な部分を指していた。

父の口から「浮気」の言葉が出るとは。
自分が実家を出るきっかけになったあの出来事(047話)を思い出したが、話を聞くために取り敢えず頭から締め出す。

「それで、さっきから母さんに電話がつながらんのだ」
「そうなの?」
まあ、怒りがマックスに達してるなら電話くらい取らないだろう、と考えたものの、父の次の言葉は少々物騒だった。

「死んでやると言って電話を切って、そのままなんだよ。
 お前さん、悪いが今から家へ行ってくれないか」
「なにそれ。そんなこと言い出したの?」
「そうなんだよ。それで……
 もしできたら、数日でいいから彼女が落ち着くまで泊まって欲しいんだ」

さもささいな仲裁の依頼のような言い方だが、思いもよらぬ頼みにギョッとなる。
「泊まるって……。そんなに深刻な状態ってこと?」
状況がうまく把握できずに尋ねると「そんなわけないじゃないか!浮気なんてしてないよ俺は!」と返ってくる。
しかし、こんな頼み方をするというのは、おそらく軽いケンカで収まらない所に来ているはずだ。

母とは、距離が近くても毎日連絡を取り合うわけじゃない。
一週間ほど前に電話したきりのはずだが、ほんの数日でそこまでこじれるというのは、あまり良い感じがしなかった。

父との電話を切り、母へ電話をしてみるが、プーップーッと話中の音が繰り返される。おそらく受話器を外しているのだろう。

(いつものヒステリーなら良いんだけど)
私は、一緒に暮らしていた黒猫をキャリーに入れ、猫のフードと翌日の着替えをバッグに詰め込んでタクシーを呼んだ。

実家のチャイムを鳴らすが応答がない。2、3度押して待っていると、しばらく経ってからゆっくりと、静かに鍵が開いた。
覗き穴から音も立てずにそーっと覗いて、誰が来たのかを確かめたようだ。

「ああ、良かった。起きてた?」
ドアノブを持って開けようとすると、中から強く引き戻された。
母の顔は青ざめて険しい。

「ちょっと。開けてよ」
ドアを開けようとすると、母はノブを両手で持って内側から強く引き戻そうとする。

「なんね、あんたこんな時間に」
責める口調で私を睨み返すと、肩からかけたキャリーが見えたらしく大声で叫ばれた。
「なんねあんた!猫まで連れて」

その目は吊り上がり、肌は妙にどす黒く上気した。

「どうせお父さんが頼んだんじゃろうがえ(頼んだんでしょうが)」
一言そう言うと、またじっと私を睨みつけてきた。
母の言葉はいつまでも出身地方の方言が強く残り、さらにあちこちの方言が混ざって独特だ。
しかし本人は「自分は美しい標準語を話している」と言い張ってきかない。自分の言動を客観視することが、それほどまでに苦手だ。

(なんで私が睨まれないといけないの)
善意で来てやったのに、との思いがちらりと掠める。

「猫まで連れて何のつもりね」

私は無意識で胸の奥から大きく息をついていた。
普通に挨拶して家に上がって、一晩話を聞けば多少は落ち着くと思っていたけれど、どうもそんな生易しい流れにはなりそうもない。
「父さんがね、母さんを心配して……」
「やかましい!」

話の腰は瞬時に折られた。
「お父さんが何を言ったか知らんけど、あんたには関係のない話じゃ。
 明日は仕事じゃろうがえ。帰り!」
「じゃあ今晩だけ泊めてくれん?明日の朝には帰るけん」
「いや、今帰り。あの人もあの人じゃ。娘にこんなこと頼んでから恥ずかしい」
「父さんは母さんが勘違いしてるって……」
「うるさい!何も聞きとうない!帰りっちゃ!」

母は頑なだった。
とてもじゃないが説得できる雰囲気ではない。

実家のマンションは階段に窓がなく、ちょっとした音でも上下に響く。
このやり取りがご近所さんに聞こえてしまうかもしれない、とチラリと心配がよぎり、少し声のトーンを落とした。

「すぐ帰るけん、少し話だけせん?」
「せん!」

ダメだ。

母はしかし、少しの沈黙ののち、なぜか急にやわらかな声を努めて出してこう言った。
「あんたが心配する話じゃないけん、悪いけど今日は帰ってくれんかね。
 私もちょっと頭を冷やしたいんよ」

急な変わりぶりが気持ち悪い。
ドアは、ほんの20cmばかり細く開かれたまま、それ以上はどうしても開かなかった。
粘ってはみたが、諦めるしかないようだ。無駄骨かとため息が出る。
「じゃあ、明日電話ちょうだい。私も心配やけん」
「そうね、そうしようかね。あんた仕事やろ?」
「うん。でもなるべく出るから」
「そうかね。悪いねえ」

ビビという名の黒猫に母は謝った。
「あんたこんな時間に連れてこられて、悪かったねえ」
ビビはとにかく大人しい子だったので、キャリーに入れられてから帰宅するまで、ついに一度も声をあげなかった。
どうやってタクシーを呼んだのか覚えていないけれど、どうにか帰宅した途端に、どっと疲れが出て、敷きっぱなしだった布団に着替えもせず倒れ込んだ。

ビビも、見知らぬところへ突然連れて行かれたせいか、キャリーの扉を開けても奥に引っ込んだまま、少し戸惑うような様子を見せている。
(明日はきついな)
時計を見ると、3時を回っていた。
とにかく、ギリギリまで寝よう。

そう思う間もなく意識が途切れた。

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