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母というひと-089話

 再婚してほどなく。
 両親は暴力を振るい合うようになった。

 最初に手を出したのは母だ。
 父は、家族の中では私にしか手を上げなかったのだが、母の暴力に容赦がないので応戦せざるを得なかったようだ。

 母はおとなしくて、人に反抗できなくて、言いたいことも言えない人(ヒステリーを起こした時以外)……だとずっと誰もが思っていた。
 いやはや、限界を突破すると、人格はかくも変わるものなのかと驚くしかない。
 それとも、単に性格なんて成長にともなって形成された表層のものでしかなくて、誰もが必要に応じて必要な顔を表に出すだけなんだろうか。

 別居していた時は手が届く距離ではなかったから、電話で口撃するしかなかった。
 けれど同居してしまうと腹が立つ相手が四六時中目の前にいるわけで。母の導火線は日毎に短くなっていくようだった。

 父の浮気を思い出すと堪えきれないほどの怒りの衝動が湧き、食事の最中だろうがテレビを見ている最中だろうが関係なく、突然怒鳴り始めて殴りかかる。それに怒鳴り返して押し戻す父。

 母の暴力は、「被害者」という面目躍如を手に入れたことで、止まるところを知らなかった。
 父の耳は鼓膜が破れてほとんど聞こえなくなっているが、原因は、母から時計だの茶碗だのと色々な物で耳のあたりをぶたれたからだ。眠っているところにフライパンや鍋で襲いかかることもしばしばあったと聞く。
 こういうとき、ケンカの仕方を知らない人間は相手の顔面を狙うというが、その通りだった。母は躊躇なく父の頭部に向かって繰り返し殴りかかっている。

 それでも、父は家を出ようとしなかった。
 定年前から長く住み続けていたK市の家に行く気配もなかった。
 元秘書兼元愛人のマンションから徒歩約5分の、あの家に。

 実家はいつ行ってもどんよりと暗く、空気が淀んで感じられるようになった。
 濁った空間で、激しくぶつかりあいながら一緒に暮らす2人。

 ……これは何だ。
 どういう関係なんだ。

 もう、よく分からない。

 余計な口を挟むことだけは慎重に控えて母の付き添いを続けていたある日、通院の迎えに家へ行った私を、母がヒイヒイと息を荒げながら出迎えた。そして、

「こんやつぅが私を投げ飛ばした。私は何もしとらんのに、私は何も悪ぅないのに」

 母は、父がいきなり自分を投げ飛ばしたのだと訴える。
 しかし父は、母がまた殴りかかってきたので「やめんか」と押し戻したら、母がバランスを崩してもんどり打って転んだのだと言う。

 母の、私に対する期待の目。

 その目に反して、自分がどちらの言うことも100%信じられなくなっているのに気がついた。


 普通なら、ここでどう判断するだろう?
 例えば母の味方について父に「どういう状況であれ、自分より弱い相手に力をふるうな」と説教するか、それとも母に「いい加減にしろ」と言うか、どちらがこの場にふさわしい対応だと思うだろうか。

 私はもう "普通の自分" がどこにいるのか見失っていたのだろう。
 一生懸命考えて判断しようとした瞬間、ぷつりと気持ちが途切れた。そして瞬時に、判断を下すのではなく、これまでの自分の行いへの反省が噴出した。

(手を出し過ぎたせいだ)と。
 母を自分に依存させてしまったことが、このカオスを引き起こした原因だと、私の無意識が私を責めた。


 母が父にぶつける怒りの落とし所は謝罪だ。
 毎日毎日、「土下座して謝れ」と詰め寄るのだ。

 人に頭を下げるのが何より嫌いな父が、それでも謝ったことは数度あったらしい。
 でも、いくら自分が悪いと言っても、1日に何度も謝らせられてそれを毎日繰り返されたら、どうだろう?
 多分私なら、キレる。口には出さなくても「しつこい」と思うだろう。

 父もそうだった。財産の半分以上を母の名義に変えてあることも持ち出して「何度謝らせれば気が済むんだ」と言い返す。そうすると母は「一生謝り続けるんじゃお前は。それだけのことをしたんじゃから」と猛然と反発して止まらない。

 私は唖然とした。
 被害者が、被害者であることを間違った方向で正当化すると、あっという間に加害者となり得ることに。
 加害行為を、あくまで「被害者の権利」だと、歪んで解釈してしまうことに。


 私は、「母さんは悪くない」と言い続けた自分の軽はずみを反省した。
 それでやっと決心がついた。
 これ以上の手出しをやめようと。

 振り返れば、父から「助けてくれ」と電話が入ったあの夜から2年が経っていた。


自分は普通だと言い張る母の、どう見ても普通とは言い難い人生を書いています。
000047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本題です。

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