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母というひと-088話

 さて。
 気付けばあと2話で90回。
 この辺でスピードアップして、そろそろ終わりに向かいたいと思います。

 こんな救いのない話を読んでくださっている方には、感謝しかありません。本当にありがとうございます!

 あと少しだけ、お付き合い頂ければ嬉しいです。


***   ***   ***


 母の体調が戻るのに比例して、父への悪口のレベルも高くなって行った。
 よくまあ、これだけ同じことを言って飽きないなと思うくらいに毎日毎日、くどくどと繰り返す。
 たまには少し控えようとしているのが伝わってきたが、それは、入院中ずっと寄り添ってくれた娘に対する多少の感謝が思い出された時だけだ。

 母と一緒に過ごせば過ごすほど、感情のコントロールを学ばずに育つのがどれだけ不幸なことかについて考えるようになった。

 自分を不幸だ、不幸だと言い続けているひと。
 いつも苦しそうで、何かの犠牲になり続けているような顔をして、でも自力で生きていく力はないからと全てを諦め続けているひと。

 でもぶっちゃけると、父の年収があれば、海外旅行だって好きに行けたはずだし、ブランド物で身を固めることもできただろう。何かを学びたいと思うなら、その費用くらいは簡単に出せたはずだ。
 そんな「楽しい暮らし」を上手に満喫できなかったのは、自分で自分を卑下して、人生に価値をもたらそうとしなかったからじゃないのか。

 母を閉じ込めていたのは、誰でもない母自身だと、今は思う。

 自分が不幸なのは、早死にした父親やまともに育ててくれなかった母親、自分を殴って憂さを晴らしていた兄たち、そして浮気者の夫のせいだと言い続けていたが、本質は、一人で生きていく勇気と実力を育てる機会に恵まれないまま大人になってしまったのが最大の理由なんだろう。
 母に一番欠けているのは、自尊心だ。


 母の通院や食事、外出のサポートを続けていた私に隠れて、母はまた父に電話をかけては怒鳴り散らすようになって行った。

 隠れてかけていた電話のことをなぜ知っているのかと言えば、父に罵詈雑言を浴びせるたび、弁が立つ父にやっつけられて、それを吐き出す相手が私しかいなくて、ぼろっと喋ってしまうからだ。

(仕方ないひとだ)と思っていた。
 だからもう、自分の人生を犠牲にしても、母が死ぬまでサポートするしかない。この人は他人には扱えない。そう覚悟を決めていた。

 そんなある日。

 いつものように通院のお迎えに行った私に向かって、母が変な呪文を唱え始めた。

「アンナ、アンタニハワルイケドアンヤツゥトセキヲモドシタケンナ」


 他のことは何もかも記憶から吹っ飛んでいるけれど、この瞬間の母の、逆光で影まみれになった顔だけはくっきりと脳裏に焼き付いている。

 確かそんなに暑くも寒くもなかった季節で。
 長袖を着ていた。だから、春か、秋か。

 秋頃に退院したはずだから、それから一年半くらい経った春のことだろうか。


 "あんな、あんたには悪いけど、あん奴ぅと籍を戻したけんな"、だと、理解するのに数秒かかった気がする。
 固まった私に「お金がな、私の年金だけじゃ少のうて苦しうてな、仕方ないんよ」と母が言い訳を口走ったのを聞いて、かろうじて正気に戻れた。

 人は死ぬ間際に自分の人生を走馬灯のように一瞬で思い返すと言うが、この時、私の脳細胞は多分、結構死んだんだと思う。
 深夜に父から電話が入ったあの夜からここまでの、辛く大変だった長い長い記憶が、一気に駆け抜けて行ったから。


 声が出なかった。
 口をあんぐり開けていたらしく喉は乾いて引き攣ったが、無理やり筋肉を動かして、仮死状態のような脳を必死で揺り動かして、やっと、なんとか、こう言った。

「カアサンガソレデイインナラ」






 あの時、

 私の時間と苦労を返せ!全部返せ!!

 とか叫んでみても良かったんだろうか。
 そうしたら、私も母さんとは違う苦しさを抱えていたんだよと分かってもらえたんじゃないか、と、後から考えたことがある。


 でも。


 どんなことがあったって、その人の人生はその人のものだ。
 自分で決めたことなら、他人が(たとえ家族でも)口を挟むべきじゃない。
 だから私はあの時も今も、同じことしか言えない。


「母さんが、それで良いんなら」


どうしても書いておきたくて始めた母の人生の記録。試行錯誤ばかりですが、ここまでたどり着きました。
私が母から得たものが、誰かにいくばくでも届くなら。
000047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本題です。



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