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母というひと-87話

 外出許可が出てからほどなく、母の退院が決まった。

 真面目な顔でジョークを飛ばしては患者をクスッと笑わせていたS医師は、退院とその後の治療方針に関する説明のために私を呼び出した場でこう言った。

「どの治療が効いたのか、まっったく分かりません」

 いつものジョークかと笑いかけたが、微妙なニュアンスが一瞬ただよう。
 もしかして、先生は本当に悔しくて言っているのかも…そう感じさせられて緩めかけた口元を閉じる。同席している看護師達の表情も、微妙なまま固まっていた。
 その部屋は、大学病院へ転院してすぐに説明で呼び出されたところと同じだ。その時も、真っ白な壁と真っ白なカーテン、医師と看護師の白衣が眩しくて、記憶の中で彼らは、光の中にいるようなぼんやりした姿をしている。

 母は、医師にそんな言葉を言わせるくらいあらゆる治療を施された。それを私が望んだ。
 もちろん出資者の父に許可は得たけれど。
(いや、厳密なる出資者は母だ。二人の財産の3分の2は、慰謝料として母の名義に変えてある。父はそこからお金を引き出して支払いに充てたのだから。いや、でも、そのお金は父が働いて稼いだものだ。なら父が出資者と言うのはむしろ正確な表現なのか?)こんなことを、つらつら考えていたのを思い出す。
(もしも父が病院と直接やり取りしていたら、治るあてのない治療をこんなにも続けただろうか?)とも。

 治療は、善意だけでは施せない。
 まず支払い能力と本人の体力が保つことが前提だ。そして退院後のQOLの維持レベルも、必要に応じて検討しなければならない。
 けれど母の場合は、離婚とうつ病発症、癌の発見と余命宣告がほぼ同時期に襲いかかってきたために、迷っていられる時間もなければ、家族間で相談できるような関係性も壊れていたから、情報の共有も検討のプロセスもすっ飛ばして治療へ突入した。
 だから、「まだ死なせたくない」という私の気持ちで病院の同意書にサインして、湯水のようにお金を注ぎ込みながら治療を続けることになったのだ。

 もし私でなく父が治療の同意を求められたら、揉めに揉めて離婚した元妻のためにここまでしただろうか…。
 私が「する」と言ったから、立場的に否定できなかっただけではないかと思わずにいられない時が、今でもある。

 父には、とんでもないスピードで額が減って行く老後の資金を、恨めしく感じられた日もあっただろう。保険適用外となる高濃度の栄養補給をあれだけ続けたのだし。
 それでも娘としては、奇跡のような母の回復劇を見せられたわけで、体や金銭面の無理を多少押してでも治療して良かった、という思いでいっぱいだった。
 
 のちに調べて知ったことだが、悪性リンパ腫は、悪性腫瘍の中でも珍しく末期から好転する可能性が、わずかにしろあるらしい。
 それなら、「できる治療はすべてやってみよう」と医師が考えたのも理解できる。

 退院の日。
 母は自分の足で歩いて、病院を後にした。
 ナースステーションに寄って「お世話になりました」と頭を下げ、看護師の皆さんと喜びを分かち合う私の後ろで、あいまいな笑顔を浮かべながら、親の真似をする子供のように軽く頭を下げるだけの簡単な挨拶を残して。


  ***** ***** *****



 フィクションならこの辺で物語を終わらせてしまいたいところだけど。



 奇跡と言われるような復活を遂げたところで、元々の人生の軌道まで変えられたわけじゃない。

 母を自宅に戻した途端に、あらゆる心配事がぶり返した。
 身の回りのことを、母がどこまで自分でできるのか。
 何種類もの薬を、間違えずに毎日ちゃんと飲めるのか。

「心配せんでも自分のことくらい自分でできるがえ」と本人は笑うが、退院後すぐに抗がん剤治療のための通院と、大学病院から紹介された心療内科への通院、そして再発予防に向けた劇薬を大量に飲む日々が始まるのだ。
 通院の付き添いと薬の管理については全て引き受けたが、さすがに私も仕事に戻らなければならないので、父に時々様子を見に来てもらうという話になった。

 父が戻ってくることに、母は抵抗を示さなかったはずだ。あまり覚えていない。
(S病院で見せた嬉しそうな顔が本音なら、まあ大丈夫だろう)とも思えたので、父の申し出に私から注文をつけることもしなかった。

 抗がん剤は点滴で数時間かけて投与される。何種類もの薬を処方してもらう待ち時間も含めると、通院の付き添いには丸1日かかることになる。
 加えて心療内科への月2回の通院も加わるわけで、私はフルタイムの仕事を諦め、再びホームヘルパーとして自宅近くの施設に面接に行き、採用された。

 まだ私が30代の中頃で良かった。それでも体力は少しずつ削がれていくのか、訪問介護の仕事を1件終えると、自宅へ戻っては5分、10分でも横になって次の訪問先へ向かうような日が増えていった。
 仕事に車は使えず、雨が降っても風が強くても自転車で行かなければならない。6段ギアつきのクロスバイクで移動していたが、そのペダルさえ重く感じられる日が増えていく実感があった。

 それでも母が自力で歩いたりお喋りしたりする姿には、明るい未来を描いたりもしたものだ。

 しかし、案の定と言うべきか、母は元に戻って行く。

 心療内科に通い始めて2、3回もすると、癌で入院する前と同じような、父への悪口が出始めた。
 診療のたびに、変わり映えしない愚痴と文句を延々聞かされながら笑顔を崩さなかった医師の対応には、今でも頭が下がる。

 そして、二言目には「私は鬱じゃけん」と言う、あの口癖も戻ってきた。

「私ぁ鬱じゃけん、なんもしきらん(何もできない)」
「鬱じゃけん、仕方ないわね」

 そう言われるたびに、私の脳の中には強い陰がよぎった。
 母が家を出て行方不明になった数日のこと。自殺未遂をしているところを病院に叩き込んだあの夜のことなどが、一瞬、乱れながら脳内で暴れる。
 庭のはしっこに積んだまま放置している枯葉が小さな風で簡単に乱されるように、私の気持ちも、母の些細な言動で乱れやすくなっていっていたのだろう。
(支えなきゃ)と強く思っていたせいで、自分の変化にはあまり気づけなかったが。

 たった一度、母が、何か正気に戻ったような目をしてこう言ったことがある。
「私ぁ生きて戻れたんやねえ。これからは大事に生きんとバチが当たるわねえ」
 私は嬉しくて、強く何度も頷いた。
「そうよ!これからは楽しく生きんとね」
 時間をかければきっと、前を向いてくれる。そう信じて一生寄り添って行こう。そう思った。
 本当に、本当に、心が前向きになれた瞬間だった。
 この世に引き戻したかいがあったと思えた瞬間だった。


 点滴による抗がん剤治療の副作用は、まず最初に顔に出た。
 ムーンフェイスと呼ばれる、顔がまんまるになる症状だ。吐き気どめなどのために使われるステロイドによるものらしい。
 もとから童顔だった母の顔がまるみを帯びると、さらに少し若くなったかに見える。薬の影響で頬に赤みがさし、ツヤツヤとして、入院時のあの、ぺしゃんこだった死にかけの姿が嘘のようだ。
 その顔が逆に健康的に見えてしまったせいで、大事なことに気づかずにいた。

 ある日のこと。母がいきなり服をまくり出す。「お腹がな、急にこんなに出てしもうて」と。
 思わず「なにこのお腹!」と声をあげてしまった。まるで妊娠でもしたかのように、腹部だけがまるまるとせり出している。
 いつの間にこんなに太ったのか……。

 聞けば、毎晩のように5個入りのあんぱんの袋を一気食いしていたらしい。ミニサイズじゃない。普通の大きさのあんぱんだ。
 あんぱんがなければクリームパン、どら焼き……買ってきたその日に一袋全部食べることもザラだなどと言い出す。
「夜になるとな、甘いものが食べとうなって我慢ができんのよ」

 こんなに太って困ったわと言うが、表情が曖昧でにやけているようにも見えた。その表情の弛緩具合に不安がよぎる。
 これに似た顔を、自殺未遂をしようと薬を大量に飲んだ夜にしたのではなかったか。

 いくらなんでもこの太り方は異常だと思い、「ちゃんとしたご飯を作っておくよ」とキッチンに立とうとするが、なぜか強く静止された。
「そんなことまでせんでいいが。自分でする」
「なんか買ってくるけん。いい。いい。いいっちゃ!」と最後は怒り出してしまう。

 母は昔からずっとそうだ。私をキッチンに立たせない。
 茶碗を洗うだけでも断られたので、無理強いするのはやめることにした。
 実際、母のためにも、自分でやれることはやってもらうほうが良いのも確かだから。

 介護の知識がなければ、全部取り上げて私がしてしまっていただろう。
 でも、それは本人のためにも良いことじゃない。
 自分のことは、可能な範囲でやってもらうのが介護の基本だ。
 そうすることで意欲や筋力の低下を防ぐ狙いがある。

 とはいえ、あんぱんの大量食いはどうにか止めなければならない。
 病院からも「さすがにそれは…」と渋い顔をされてしまった。

 この頃、父と電話していて「お前さん知ってるか?一晩にあんぱん一袋食っちまってるんだぞ」と言われた時は、(私が知らないわけないでしょ)と、口には出さなかったが少々イラッときてしまった。
 私が一体、どれほどの時間と体力を母のために使ってると思ってるのか、という気持ちが、この辺から少しずつ濃くなり始めたのではなかったか。

 母のサポートで特に難しかったのが、服薬管理だった。
 何度も失敗しては、薬局に相談して一回分を一包にまとめてもらったり、ケースに分けて入れてみたり、壁にかけるタイプの服薬シートを買ってみたりと試行錯誤を繰り返した。
 最終的には、長方形の封筒の上半分をハサミで切って、朝・昼・晩・寝る前用の薬を一回分ずつ分けて入れ、表に日付と飲むタイミングを書き込むことにした。
 薬の袋に書かれた文字が小さすぎて読めず、飲み方を間違える原因になっていたからだ。

 その袋を、飲む順番通りに空き箱に並べる。
 薬は2週間分しか処方してもらえないため、月に2回、その作業がある。
 そこに、大学病院とは別で通っている心療内科の薬も追加で別の日に作業しなければならない。
 とんでもなく手間がかかるが、これが一番良いようだった。

 私が母に歩調をあわせて、なんとか前進しようと模索する中、母はむしろ感情が逆戻りするのを止められない様子だった。
 次第に、減っていた不眠の訴えがまた増えて行く。父が浮気していた頃のことが思い出されて、強い恨みと怒りが、また湧いてくるようになったらしい。

「もうどうしようもない時は、薬を飲んで寝てしまうようにしとる」と言う母に、私は「よく眠るといいよ」と答えたが、今考えると鬱病のことをまるで理解していない受け答えだった。ひどい返事をしたものだ…。

 どうしても眠れないと訴える母のようなタイプは、眠ろうとすること、「眠らなければならない」と思うこと自体が苦痛になっていたはずだ。服薬すれば楽になる人もいるが、母はそうじゃなかった。
 それなのに「よく眠るといいよ」なんて。

 母が鬱病を発症してから、私が母に向けた態度や言葉、改善のためのアイディアのことごとくは、おそらく負担をかけるだけだっただろうと、今は少しだが理解ができる。
 いつもどこかで、「いつかは治る」という前提で話をしていたから。

 母は、治ると期待されるのが辛かったのではないだろうか。
 私に全面的に頼りながらも、私に隠れるようにして父に電話をかけ始めていたようだった。



どうしても書いておきたくて始めた母の人生の記録。試行錯誤ばかりですが、ここまでたどり着きました。
私が母から得たものが、誰かにいくばくでも届くなら。

000047話は、母の人生の前提部。
051話からが、本題です。

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