雑記;自助的認知行動療法のための_20200514

 コンサータ飲んでるんですけど、今日は久々に口渇が酷くて「こりゃ効きすぎてるな」と思っていたら仕事のストレスも手伝って不安が強くて耐えられんかったんでレキソタン入れたんだけど全然よくならない;最終的には1シートくらい飲んだ;2mgの処方だから1シートだと20mgで1日の上限量5mgオーバーか。

 覚せい剤(コンサータの成分はメチルフェニデート)を毎日キメて、効き目が強く出たときは抗不安剤を入れて、そんなヤク中みたいになった状態でもバイトすらギリギリ(たまにダウンする;当然だよね)って生活はまったくもって正しくない;正不正の問題じゃないかもしれないけど、明らかに不自然な生き方だと強く思う。

 もちろんコンサータがなければ毎日寝落ちするから労働なんて一ミリもこなせないしミスもしまくる。インチュニブやエビリファイがなければ衝動性に対する抑えがまったく効かずに浪費して借金したり突然キレて上司ディスったり最悪そこらのオッサンをブン殴るかもしれない。そうやって僕はなんとか生きている;サラ金に手を出す可能性は服用を続けている限りゼロに近いし、犯罪者になる可能性も低い。それは逆に言うと服用を止めてしまったら衝動性にストップがかからなくなって身の破滅を引き起こすということだ。だからクスリはたぶん死ぬまで飲み続けるし、そうしなきゃいけない。

 これは精神障害を抱えているすべての人に共通する悩みだと思うけれど、抗うつ薬やコンサータのような脳にダイレクトに作用して自分の性格や生活スタイルなど生/性に関わるすべてが治療薬の服用以前とはまったく違ってしまうことへの戸惑いというものがある。そこで何が問題かというと、一言で言えばそれは自己同一性の問題なのである。

 自己同一性ってもんは現在の自分は過去の自分と同じ自分であるし未来の自分も過去から現在に至るまで一貫して同じであり続けてきた自分に他ならないのだという意識の時間的な連続性への確信である。

 その自己同一性はしかし服薬によって破壊される、とまでは行かないまでも揺らがざるを得ない。服薬によって以前の自分とはまったく違った意識・精神構造によって生きている自分は果たして過去の自分と同じ自分なのであろうか、いや確かに自分は服薬によって諸々が変化してはいるが身体的な次元においては過去の自分と間違いなく同じなのであるからそこに自己同一性が揺るがされるような要因などあるわけはないではないか、だが...といったようにわれわれは服薬治療によって確実に社会への適合度合いを高めていっいっているのにもかかわらず、いやむしろ社会への適合性が高まれば高まるほど、つまり良い変化=治療の効果が良い方向に出ることによって自己同一性の崩壊の兆しをひしひしと感じ取るのであるのではないだろうか。

 覚せい剤やってまで健常者ベースで構成された「社会」なるものに適合して毎日クソみたいに疲れてストレスを感じながら低賃金労働に体力と精神を削られるのか;確かに感じるのは労働によって生じる負荷が精神に与えるダメージは不可逆的な傷跡を僕らに深く刻み続けていくということだ。

 疲れる、もう生きるだけで疲れるのに働いたら、それも覚せい剤で体力気力を水増しすることで無理に無理を重ねて労働するんだから疲れるに決まっているだろう。しんどいよな。

 そういうことで今日はクタクタなのでここでおしまい。

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