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3月に体感したことを書けるだけ書いてみる②

さよならする時


卒業式って、いつもピンと来なかった。感動したとか泣けたという記憶はほぼ無い。中学では吹奏楽をやっていたから、どちらかというと卒業式を準備する側にいて、泣いてるみんなを見てた感じ。客観視してしまうのが自然だったの。そして、あらゆる出来事はストーリーで自分のことも客観的に捉えることができると思っていたけど、それは誤解だったのかもしれない。
わたしにも主観があることに気づいたのは恋をした時だった。大人になってからやっと「恋愛感情ってこれ?」と気づいた。そこまでの「好き」とは異次元ののめり込み方だった。いろんなことが、本当にいろんなことがあって最終的にわたしからお別れをした。それはある日突然のバッサリとしたお別れだったけど、そうでもしないと別れられなかったと思う。その時、「卒業式みたいに時間が来たらはい終わり、とはできないもんなんだな」と思ったし、泣いたり怒ったり感情は揺れまくったし、ああ、きっと相手からはさっさと乗り換えていなくなって冷たいとか思われてるんだろうな、弁解したいような気もするけどそれじゃ意味ないしな、なんて思って、とにかく離れた。離れている間にその人は亡くなってしまったから、もう弁解することもできやしない。こんなふうに本当のさよならは突然やってくるんだと思う。

痛み


死ということに関して、あまり重みを感じない。近しい人の死はもちろん悲しいし、体が反応して涙が溢れる。だけど、葬儀などはどうも形式的に思えるし、気持ちがついていかない。たくさんの人が参列していてみんな悲しんでいるように見えてもそれぞれに思いは違うんだろうなと思う。
一時期、葬儀と聞くと必ず参列するようにしていた。あまり近しくない人であっても。形式的だろうとその場に足を運んで感謝を伝えたい、手を合わせたいという気持ちからだった。葬儀の度に感じていたのは亡くなったご本人はとても軽く、参列者を見守る感じなのだということ。亡くなったご本人と、それぞれの思いを抱えながら準備に走り回るご遺族や参列者とのギャップをいつも感じていた。先日テレビドラマで亡くなった人が幽霊として描かれていたのを見たけれど、あれは結構リアルな感じだった。いや、わたしは幽霊は見えないけど、あの感覚はわかる、と思った。
何の話だっけ?
死の話が長くなりすぎてしまったけど、別れって本当にそのタイミングが来るので、コントロールしようとしても無理だし、恋愛のお別れも、さっきは「自分からお別れした」と書いたけど、あれだってタイミングが来たのだと思う。そして、だからこそ悲しいとか悔しいとか感情が溢れてくるし、それはそういうものだから、ただただ味わうしかないのだとも思う。今回、わたしにやってきたのは更年期という体の変化から、若い時の自分の体や心とのさよなら。そして、気づけば30年近くわたしの一部としてわたしを支えてくれた手話に関してのさよならがあった。その痛みは結構大きかったなぁ。
(続く)


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