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我が蓮ノ空への述懐 ‐二次創作『天華恋墜』執筆前文‐

二次創作小説本編はコチから

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ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ――。

 所謂「ラブライブ!シリーズ」のメディアミックス作品のひとつであり、スマートフォン向けアプリゲーム「Link!Like!ラブライブ!」を主な媒体として繰り広げられる、今を時めく少女たちの青春模様。

変わらないものと変わっていくもの、旅立つものと遺されるもの。
新しい風は次の蕾をほころばせる。
その中で煌めく青春を生きる9人の少女たち。
限りある時間の中で、精一杯に花咲こうともがく。
これは、そんな彼女たちの「みんなで叶える物語」――

 かくて儚き少女たちの青春物語に惹かれながら、云々。
 本コンテンツの魅力については何処かで語り尽くされているであろうから呶呶を要しないが、端的に換言すれば、「蓮ノ空」はその一過性においてサブカルチャーに特異な存在である。キャラクター達も加齢する。緩やかかつ瞬く間にカレンダーが捲れていくような少女たちの日々を、我われファンが恰も登場人物たちと語らうがごとく、覗き見る。一瞬を煌かせようと藻掻くスクールアイドルの姿は、青春そのもの。その儚さに〈もののあはれ〉の一端を見出した私は、時めく彼女たちに心奪われ〈蓮ノ空のこと好き好きクラブ〉の一員となり、密かに本シリーズを追いかけて来たのである。

 でも、それだけでは私は、満足できなかった。
 声優業のマルチタレント化や2.5次元コンテンツへの疑義については関心が無いので以降も等閑視させていただくが、兎角何か、条韻嫋嫋な彼女たちの煌めきを、この物語を、無邪気に享受できるだけの心持ちが私に準備されていない、そんな引っ掛かりがどこかにあったのである。個性的なキャラクター達にはみな光る魅力があり、104期生の加入についても心地良く受け入れられた。楽曲は誇張なく毎日聞いているし、櫛風沐雨の只中で活力を貰ったことさえ屡々あったと、今でも強く覚えている。だとしても、私には不思議にも、その物語に生きている人間の感じを得なかった。学生服を着て、時にぶつかり、悩み、そうして、彼女たちは、笑って、煌めいている。しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さとでも謂おうか、生命の渋さとでも謂おうか、そのような充実感はあまり無く、それこそ鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。気障と言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。惚気と言っても、もちろん足りない。私はこれまで、こんな不思議な感覚に陥ったことが、一度も無かった。
 誰がどうと謂いたいのではない。乞食姿の貧しい視聴者である私には、そんな思い上がりの評価は決して許されない。ひどくだらしのない、青春を忘れたくないだけの大人の戯言だ。それこそ、失礼極まる事である。公式の提供するコンテンツに文句があるのであれば、二次創作でもって新たな世界を拓くか、あるいはそんな厄介な妄想を抱いてしまった哀れなオタクは、恭しくもその界隈から足を洗うべきだ、とも考えた。

  なにより、ああ、そうなのだ――。
 人間喜劇はぜったいに人情と愛の二点に立脚せねばならぬ、という信念が私にはあるのだと、気付いてしまったのは苟もこの時である。
 すなわち愛とは、永遠不変の美への所有を羨望すること。

左耳通良布 君之三言等 玉梓乃 使毛不来者 憶病 吾身一曽 千磐破 神尓毛莫負 卜部座 龜毛莫焼曽 戀之久尓 痛吾身曽 伊知白苦 身尓染保里 村肝乃 心砕而 将死命 尓波可尓成奴 今更 君可吾乎喚 足千根乃 母之御事歟 百不足 八十乃衢尓 夕占尓毛 卜尓毛曽問 應死吾之故

『万葉集』巻十六-三八一一 戀夫君歌一首

 われわれはもはや動物ではない。愛を知る人間だ。コミュニケーションが言葉だけであったら、どれだけ楽だっただろうか。人間は嘘を付き、他者を傷つけ、それでいて愛しているなどと平然と嘯く。度し難い。ほんとうに伝えたいことは愛するあの人へは届かないし、本心を誰にも掴めないところに隠したり、あるいは道理外の活計に挑んで想い人を手ずから加害したりさえもする。私とて、過去には罪万死に当るべき暴言を吐いたことがあるのかも知れない。そんな、腹立たしいくらい面倒くさい人間の恋愛模様は、旧歌にも謳われるように、霊〈タマ〉に頼りたくなるような、そんな神秘性を帯びているに違いないと、私は信じているのだ。駆け引きがあるからこそ、欲望と理性の狭間にあるからこそ、男女の恋愛は醜くも美しく、生の実感があり、お互いをより人間らしく引き立てる。そこには、スクールアイドルたちの煌めきにも通じるところがあるのではないだろうか。彼女たちの想いは歌にのせられ、それは上手だったとか感動したとか、やたら女学生くさいリリシズムで評すべきものでもないのかもしれないが、私にとってはそれが「自分の居場所を確かめるため」なのだなあと感ぜられ、応援していて、ふっと涙ぐましくなる。
 彼女たちの居場所はどこだろうか?男と女は一緒にいた方が、面白いに決まっている。こうした恋愛結婚への固執は一方で数年来私が探究してきた、民俗学における〈家〉の問題にも起因するようにも思えるのだが――畢竟衒学的態度は抛ちインテリ主義では片付けたくないのであって、そんな、少年らしい理由に結実してしまうのが小憎たらしい。私は、人間の愛を信じたいのだ。くたばれ、ショーペンハウアー。
 ストルゲー、エロス、フィーリア、アガペー。情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛。どんなに干乾びた不幸な感性の少年少女も、齢十六になれば異性への恋愛感情を抱くと謂うではないか。愛を知って、人間は強くなる。そんな不思議な言葉を信じたっていいじゃないか。

 スクールアイドル、麗しき高校生の少女たち――。
 梢には、情熱的な夢を追いかけると共に少女らしいドギマギする恋を経験してほしい。綴理には、彼女の繊細で優しいところを理解してくれる人と幸せな日々を過ごしてほしい。慈には、彼女の芯の強さを一層際立ててくれる人と今後も輝いている姿を見せてほしい。そんな一幕をふと思い浮かべる。

 しかしながら、「ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」のキャラクターとして宿命づけられてしまった彼女たちは、必然、男性との交わりを許されない。彼女たちの青春の銀幕から、煌めきと魔術的な美が遂に奪い取られてしまったのである。アイスキュロスやシェイクスピア、ラシーヌが観客と共に色を分かち合い、文字で情熱を沸かし、ミュトスの運命を決する。そんな時代ではもうなくなった。これからのスクールアイドルたちは、爛漫で静かで物憂い学園に居て、平熱の日々をいつか懐かしむことを知りながらも元気いっぱい過ごしていく。これこそが「ラブライブ!」の栄光とオタクの妄想のすべてが最後に到達した運命である。

変わらないものと変わっていくもの、旅立つものと遺されるもの。
新しい風は次の蕾をほころばせる。
その中で煌めく青春を生きる9人の少女たち。
限りある時間の中で、精一杯に花咲こうともがく。

 ――そして「愛」を知らぬ運命に束縛されたことにすら気付かず。
 その世界は幕を閉じ、いつの日か、消費され、忘れられていくのだ。
 なにより、「みんなで叶える物語」に、彼女はいなかった。

 ――大賀美沙知。

 春風駘蕩の美談も羨ましいものには違いないが、私はやはり、出来るだけ見事で美しい花を咲かせたいと願ってしまう性分であるようだ。彼女たちが花咲かせるために、私は「愛」を求める。
 そうした信念をもって、私は改めて市井に溢れる二次創作の幾らかを読了してみたのであるが、単なる文字の羅列は、真の物語ではなかった。正直に断言したいのであるが、従来の「ラブライブ!シリーズ」二次創作において登場する少年主人公というのは、あまりにも自己中心が過ぎる。スクールアイドルの少女たちはただ、筆者たる男の性欲を満たすための舞台装置としてしか描かれておらず、我が人生の永遠命題として掲げているような、男と女の関係の機微なところ、青春の崇高さというものが、ちっとも表現できていない。男は度胸、女は愛嬌、スクールアイドルは、それゆえに最強なのだ。ヒロインの煌めきを助くるために現れるのがヒーローなのだ。原作の女性キャラクターの魅力を一層引き立てるための、オリジナル主人公でなくてはならないことを、書いているうちに忘れてしまっているのだろう。私自信の乏しき過去の愛の経験において、あるいはスタンダール流の恋愛論を半端に取り入れてみただけでも、こうして異性恋愛の神秘性を確信するに至ったのに、所謂「百合」と形容される同性愛作品愛好者達にとっては、この人類普遍の原理が深く織り込まれていないがために、あたら宝の持ち腐れとなっている事実を発見し、長嘆息することとなった。同性愛の禁忌は、むしろ私の得意分野である人類学・民俗学の領域で解決すればよい。兎角、少女たちの儚き煌めきの本質の正体が一体何であって、どういう時にどうして育まれていったかの説によると、最早一知半解の知識も、索漠たる余韻も、文学世界の拡がりも、なんら現行の二次創作の範囲内には存在しないのである。
 コンテンツそのものの面白さが担保されている限り、「蓮ノ空」はオタクの残瀝をすすり悪酔するなどの事はあるまい、と、馬鹿に調子付いて傍観していた筈だったが、いろいろ考えて、考えつめて行くと、それもただ、傍観者でしかない私自身の気障でだらしない感傷にすぎないような気がして来て、何もかも、頼りにならず、心細くなるばかりである。

 「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げて罵った。

そうともなれば、私が為すべき天命は唯だひとつ。
――私自身が世界を創り、繋げるほかあるまい。

「あの青春の煌めきを、もう一度―――。
恋を知らぬ運命のスクールアイドルたちよ。」

 時恰も辞令が下り、偶々私の身辺にとって大きな区切りが訪れたことが重なり、置き去りにしてきた青春の要請に応え、挺身勇躍すべき秋が訪れ来たったと自覚するに至ったのである。十年来に亘るサブカルチャーとの我が因縁と、ひいては創作活動への執着と憧憬が、悉く「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」の末席を汚すべき秋が終ぞ来た。廣く眼前に瀬戸内海の碧玉を望み、波静かに砂白き多島海の情景――そこは、私の創作意欲をはぐみ育ててくれた最終の地であったが、急遽、無頼の都、あの人間喜劇の只中に新発すべき任務を授けられた私は蒼惶として出発の用意を整え、旅情とも記憶とも訣別し、象牙の塔を目指した我が心象の書斎ともなり、魂の住家ともなってくれたあの海に、暫しの別れを告げた。思えば、私が創作活動に志してより一年半、四国の地で生活苦と戦い、人間関係に悩み、孤独感に苛まれ、重畳の荊棘を切拓くにも似た忍苦の連続であったが、その一旦の完成を見るのも目睫に迫り、遂に最後の一歩にまで達して、既に一筆の任に赴かんとする私は、ここやっと欣然としてファン・フィクションの門を叩いた。もとより生ある限りこの創作活動を絶つべきでなく、その趣意は現時点で殊更にないが、今や家族とも別れ、愛着限りなき故郷・北陸とも永らく別れ、怒濤たる波音こそ懐かしの日本海にも暫しの別れを告げる如く、我が空虚な青春の日々とも仮の別れを叫び、スクールアイドルたちが紡ぐ新たなる青春の語り部となる述懐を高らかに表明するのである。


「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」

 哀叫の文豪・太宰治による異色の伝記小説『津軽』の冒頭一句。
令和六年初夏の頃、津軽地方を逍遥した私は、彼の足跡を辿り金木の町へと向かう津軽鉄道の車内にて、何の因果であったのだろうか、不意に同書を手に取った。日頃は旅行関連の創作活動を主とし、漸く我流を得たりと己惚れる私にとっては実にすっと胸に落ちるこの警句は、それでいて耽美麗文に映った。当初の計画段階では来る予定ではなかった車窓の一幕だが、偶にはこんな時間があっても良いであろう――。
 しかし問題は、続く一節であった。

「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
‥‥‥
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」
‥‥‥

 青天の霹靂であった。ぞっと、背筋が凍るような想いがした。人間五十年、前世からの宿縁により、おのれは無様に早死にするであろうというぼんやりとした不安が、纏わりついて離れなかった。
 思えば他愛なきわが人生、哀しきかな、生来空蝉の肉塊に幾らかの問題を抱えており、二十年以上、三十年以下?永らく宿痾に苦しめられて、筆硯を――それだけではない、些細な少年の理想ですら、尤もらしい理由を取り繕って廃することも度々。扨ては人間不信という不治の病を罹った少年は、自らの信頼する人びとから見事に裏切られ続けて幾星霜、赤恥をかいた事が多すぎた。人は、あてにならない、という発見は、私を青年へ、そして大人へと否応なく押し上げ、厚顔のまま資本主義社会に追従することをなんとか許し、或いはそうした苦々しい経験が創作活動への意欲にもなっていることも理解はしている。元来手先が不器用で物覚えも悪い私が、こうして社会に居座ることを――形式上は、認められているというのは天運に他ならない。それもまあ、どんなに足掻いたところで、天賦の才を授けられたいとし子たちからは歯牙にもかけられないような、その程度の方便でしかないのだが。
 なにより、労働力再生産の末得られるものと謂えば、決して全ての歯車を満足させるような正当な評価や他者からの愛情などではないということは、敢えて青年の心情に照らすまでもなかった。薄給を握りしめ均質的な都市の寓居へと帰れば唯だ暗闇、そこには愛すべき家族が待っていて欲しかったはずなのに。どうにも、うまくいかないのだ。大人になると、愛を手に入れようとするのは、なんとも難しくなってしまった。無機質で無関心な都人士の日々を、日銭のため、仕方が無いのだ、義務なのだと錯覚して只管繰り返し、街をすれ違う少年少女の何気ない会話や恋人たちの見せつけてくるような情熱をどこか避けて歩き、我が使命は祖国の民俗を啓くことにあるのだと何の根拠も無い妄執に縋り、独り趣味の旅行へと没頭し自尊心を慰める。みよ、こうして愛の崇高さを騙っていながら、自ら愛と遠ざかって、どこに人間発展の道があろうか。息切れしやすくなったとか、ちょっぴり髪が白くなったとか、身体の締りがなくなったとか、そうした大人の平均的な日常を不可逆の事実として認識するだけで、迫り来る死への不安のために夜々転輾し、呻吟し、発狂するには十分だった。

 だからこそ、文学だけは無窮でなければならない。
 改めて、私が「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」に心惹かれたのは、その創作世界に拡がる少女たちの煌めきと儚げな青春の美しさである。一つの作品に一つの魂が生れ、また豪宕な人間精神から雄渾なる新世界が生れる。活字の流れ、怒濤の行間、縹渺たる読了感は、即ち我われの魂の郷土――敢えて表現するならば、そう、それもまた「愛」の在り方ではないか。文字は殺すが霊は生かす、しかしその空虚な文字にしか見出せない愛を、我われの魂は覚えてしまった。愛に生き愛に死す、我われオタクは愛の民族である。愛を知ったと騙るいま、私は満足な豚のまま肥え太ることをもはや良しとはしない。物語を書くならば、いま、この悩める精神が幸運にも未だ現人に宿るいましか、ないのである。私がこの未熟な創作活動を公にしたいと至ったのは、たとえ足掻いた末に不満足なソクラテスにすら及ばなかったとしても、「推し」と共に歩んできた足跡を新しき認識の下に闡明せんとする者に、せめて陳呉の意味たらしめたいからである。

 されど斯くの如く感動的な決意をもってしても、まだひとつ、大きな問題が立ちはだかっていた。実は二次創作への羨望は、私がオタクになった初期から抱いていたものであり、とある自らの欠点を強く認識していたがために、本格的に実現することを躊躇していた。
 さて先述の如く、私の従来の創作活動は旅行関連の発信を主とするもので、ブログで旅模様を紹介したり、旅に役立つさまざまな分野について紹介したり、民俗学についての解説動画制作を試みたり、想い出深い四国の地を振り返ってみたり。すなわち、この動画ブログ記事で漸く実現に至ったと思っているが、限りなく学問的な「事実」を基礎として自らの「好き」を発信したい、と、常々意識してきた。旅先で感じるモヤモヤに少しでも「正しく」名前を付けることで、次回の旅を一層楽しいものにできればと願う純粋な意志である。ただし、この態度がインテリ主義を無批判に礼賛している顕れではないというのは、私が、現代史におけるカウンターカルチャーの代表である所謂「淫夢」のコミュニティに属していることからもお分かりいただけるだろう。

 然も然も問題となるのは、つまるところ私の得手不得手について。私は、既に世に出回っている諸物を学び、模倣し、換骨奪胎して新たな価値を創ることは得意な一方、無から価値を創り上げることは不得手であるという自覚があります。文献を並べて獺祭の饗宴に浸り、それこそ文学の世界へと渉猟しようという心意気は十分だと自負したいが、けれども輻輳した俗事の時世は簡単にこれを受け入れてはくれない。十襲珍蔵すべきほどの感懐ではないので、情けなく告白することにしよう、私はひとりの創作者として、パクリだと評されることがなによりも恐ろしい。私には無意識に自分の中で完結した世界観を構築してしまうきらいがあり、意図せずして、オマージュを越えた盗作を自信満々に吟じて大恥をかくのではないか。この衝動的な強迫観念に苛まれること烈しく、なかなかに二次創作への第一歩を踏み出すことができなかった。
 しかし私は、創作活動そのものに関しては一年半前、既に初めの一歩を踏み出している。創作経験がある読者諸君には釈迦に説法だろうが、おのれが丹精込めて練り上げた作品を大いに見せびらかし、剰えインターネットの波濤の中で論壇に乗せられてしまうというのは実にはらはらする。されど、喉元過ぎればむしろ心地良く、酸いも甘いも自分への評価に対しては真摯に向き合いたいといつの日にか思えるようになり、何となく、今までの長い間の辛苦艱難が皮のむけたように自分を離れた心地がするものだ。そして、何故だか、長らくの間等閑に附してきた重大な事実として、そもそもファン・フィクションとは、何かへの模倣があってこそ成立するものであるということを、ようやく認識するに至った。風に草木が靡くときは瞬く間であって、かくて私の創作意欲を縛り付ける一切の秋霜烈日の厳はもはや熟慮に値しないものへとここに霧散してしまった。なんとまあ、人間の思い込みには困ったものだ。

 さればもうひとつ、勇んで二歩目を、重畳して千里の道を踏み締めていくであろう漂泊の旅人への餞として、逆転の発想をもって我が二次創作の指針としてみたい。私は、韋編三絶に親しんできた先人たちの文学技巧でもって「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」を再解釈し、恰も純文学とも見紛う程の文体でもって、インターネットの荒波へ、文壇へと押し上げたい。所謂パスティーシュ文学というやつだ。もちろん二次創作としての原作設定・キャラクターへの敬意は大前提として明らかにし、それでいてライト文芸らしい軽妙洒脱な掛け合いも組み込んでいきたい。闇鍋である。だからこそ、たかがサブカルチャーの二次創作を、原作への愛を殊更に強調したままそれ自体の文華麗文でもって読者を魅了する――。これは、前代未聞の試みではないか。それ即ち小説にとって最も重要な「オリジナリティ」を、私はこの試みによって確保することをここに宣言する。加えて、私は旅行系創作を発信し続けるひとりのYouTuber・ブロガーとしての誇り――あるいは驕りがあるのだから、本書にも北陸への旅情を惹起させる描写をふんだんに盛り込みたいと図っている。これは、北陸の地で生まれ育った自信の宿縁に対する挑戦であるとも換言できるかもしれない。
 ――などと、人心を動かす才華も聖者たる才器も持ち得ぬ張三李四の都人士は、その意地を兎角滑稽な形で表明したがるものであるから、これが甚だ照れくさい文体であるというのも、自覚している。続けて慇懃ながら内情を吐露させていただくと、この野望は果てしなく、私自身にも雲を掴むような思いがする。しかし稼ぎに追いつく貧乏は無いように、創作活動にいざ没頭している瞬間は、外聞も忘れて筆が進むものだ。まず、私は、書いてみる。そして諸君らは、ぜひ一度、手に取って読んでいただきたい。私の本書を公にせんとする願意は、専らここにある。 


さて、漸く。本書の紹介をさせていただこう。

『天華恋墜 ‐蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ102外典‐』
(てんげれんつい)

「あの青春の煌めきを、もう一度―――。
恋を知らぬ運命のスクールアイドルたちよ。」

⚠️注意事項⚠️

  • オリジナルキャラクターが主人公です、男が出ます。

  • 史実をベースにしつつ、一部重要な設定を変更しています。

  • 時系列も同様に変更しています。

  • 102期入学からスタート、卒業まで描きます。

  • 大賀美沙知、藤島慈、乙宗梢、夕霧綴理が活躍します。

  • 恋愛要素あり、エロはありません。

  • 各ヒロイン個別ルートあり、ハッピーエンドをお約束します。

 讃辞先は無数に存在するものの、幾らか主たるものを列挙するならば、紫式部、高村光太郎、坂口安吾、太宰治、谷崎潤一郎、18禁美少女恋愛ゲーム、そしてビルダー拓也など。開き直って仙人に登る意志で奪胎換骨、先達たちの美麗なる名文を「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」の世界に再解釈し、彼女たちの艶やかな青春と恋愛の物語をひとつの文学作品として描き出すことを企図する。
 全五十四章で構成される一大長編を計画し既に草稿を練ってあって、天地神明、必ず完結させるとここに誓う。既存の102期創作は彼女たちの記憶から一部を抜いて配列したに止まり、年代を準えて、一応の形式をとったものもあるにせよ、その他のものに至っては、年代もない極めて平面的なエピソードに過ぎない。これでは生命の流れがなく、麗しき少女たちの青春が迎える真の「ハッピーエンド」とはどうしても受け取り難い。
――沙知先輩は、スクールアイドルとして煌めくべきなのだ。だからこそ、102期生の入学に始まり彼女たちの卒業に至るまでのすべてを、あらゆる公式の本編、配信、カード等を参照し、一大長編でもって書き綴ることが求められた。目安としては、第二十七章にて沙知先輩が卒業し、物語がひと段落着く予定だ。初めての試みにしては聊か遠大過ぎる構想であると承知しているものの、孔子は三十にして起ち、親鸞上人は最晩年まで推敲に捧げ、プルーストは十四年の時を求めたのだから、私にも出来るはずだと、まずは強がりたい。
 或いは留意していただきたいが、これしきのファン・フィクションを書き切ったところで古聖人の獲麟を気取るつもりは毛頭無い。創作活動は神秘でも象徴でも何でも無く、唯だ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めでしかないのだから。所謂「推し活」の名のもとに、多少なりとも「蓮ノ空」の布教をしたいという欲望を携え、第一にわが創作活動への道標として、また我がサブカルチャーへの宿縁に対する目的達成への一段階として、敢えて本書を世に送り、以て世の批判を仰ぎ、識者の教示を得て、他日私にとっての「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」完成への地固めを為すと共に、その完璧をも期さんことを、唯だ一人の悩めるオタクとして、只管念願するに至ったものである。

 何より私は、学術的な文学理論に関してはまったく素人である。「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」の世界を文学たらしめたいという愚かな趣味人の理想も、所詮は一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金に過ぎないものだという、自責の念を常に忘れてはいけない。文学の技巧とか深淵さとかに就いて、もし詳しく知りたい人があれば、その専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。そう、人の心と人の心の触れ合いを研究する科目――世人は仮りにその科目を「愛」と呼んでいるものだ。私は此度の二次創作に於いて、主としてこの一科目を追究する。

 慎しもうと思いながら、つい、詩人気取りの下手な感懐を述べてしまった。私の理論はしどろもどろで、結局自分でも、何を言っているのか、わからない場合も多い。何だかどうも、見え透いたよろしくない虚飾を行っているようで、ここに来て慚愧赤面するばかりだ。必ず後悔ほぞを噛むと知っていながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言い出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさえ起させてしまうのは、これも私の哀しい宿命のひとつらしい。
 でも、そうした見苦しさも、わたしらしさなのだから――。
 あの日々のスクールアイドルの言葉が、そっと私の背中を押す。

 さあ銘記せよ、読者諸君。諸君らが「推し」に向かって歩いている時、その路をどこまでも、遡り、遡り行けば、必ずこの『天華恋墜』の物語に到り、路が愈々狭くなり、さらに遡れば、すぽりとこの新たなる創作世界に落ち込み、そこに於いて彼女たちの青春は愛に煌めき結集すると当時に、諸君らの路は無窮の愛に全く尽き果てる。そして庶くは、諸君らの一閲を得、更には己の蒙を啓くを得ば幸甚とするところである。

 恋するスクールアイドルたちの、一大抒情詩の再演――。
 ああ、それが、うまくゆくといいけれど。

令和六年十月 
故郷北陸を想い、愛慕の四国を去るにのぞみて


天華恋墜 第一章:青春物語 

続く。


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