見出し画像

名作をたくさん読んできちんと感動しないといい子になれませんか?

という考えをこじらせてしまい約40年、「本を読まなかった自分は良い子になれなかった、褒めてもらえないんだ!」といういい加減な自責の念を抱いております。

大人になり、読書は競うものではなく、自分を耕すものであると考えるようになりました。今もマイペースで本を取っております。

それでも小さい頃、特に中学受験のころ(全落ちしましたが)にやたらと「名文」「名作」の一部分を提示され(一部分だけなのがポイント)、「正しい読み方」を躾られた経験は、「本を一字一句間違い無しに読み解かなければいけない義務感」という、ある種歪んだリテラシーを自ら育んでしまいました。
また、中学受験の問題集の中には、「名作小説」の冒頭数行だけを提示して題名を答えさせるという、どこぞのイントロクイズのような、でもどこかの私立中学で出題された事実のある応用問題(もはや珍問)まで掲載されており、「こんな作品すら知らない自分は悪い子なんだ……。」と、より国語と文学への劣等感を、地中深く深くに潜るように伸ばしてしまいました。

結果、本には、特に小説の類には恐怖を抱く中高生になりました。
答案に赤丸がつかないと、テストで90点以上取らないと、「読めた」という手応えを得ることができませんでした。
その当時の私にとって読書は、英語のcanかcan'tかの能力値、正か否かの他己評価で判断するものでした。

(余談ですが。大学入学共通テストの国語試験が「情報力テストではないか」「文学への素養を問う気はないのか」と批判を浴びていましたが、小学校の頃からいいとこの大学を目指している子は、小さい頃から「文学作品」の「断片的な部分」を与えられて、ほぼ毎日「情報取捨選択タイムトライアル」をやっているわけなのです。)

ただ、あまりにも読書量が人より少ないはずだ、と思いこんでいた私は、それを打ち消すために、ある作家の本を取りました。

星新一。

一編数ページのショートショートは、たかが40分程度の読解力テストで人生を棒に振らなければいけない少年だった私に新しい価値観を提示してくださいました。
取扱説明書チュックなのに、どこからかチグハグ。人間なんていなくなればいいの?そんな疑問と開き直りの日々。
あっけらかんとした短いお話に魅了された私は、しばしの間「長編大作主義」の商業合戦を忘れることができました。
御茶ノ水にあった美術予備校から千葉の実家に帰るときの総武快速線は、中学受験で凝り固まった文学への偏見を、少しずつ崩す作業の時間となりました。

とはいえ、冊数稼ぎに星新一ばかり読んでいても限界が来たわけで。
むしろ私は星イズムにすら入学試験的正しさと(SF中心だったのも影響した)、良い子強い子的数値換算性(何冊読んだから偉い子、みたいな)は燻らせていました。
そうすると、やはりこじらせた大人になったわけで……。

ときは大きく流れ、紆余曲折を経て倉庫作業員をやりながら小説を書く今。
何のために文章を書いているのか、どうすれば人にこの気持ちを伝えられる表現になるのか、考える側に回りました。
今でも「名作」を手に取っていません。というより「名作」って誰が決めるのでしょう。おそらく、小学生くらいだと分からなかったからくりがあったのかもしれません。大人になった今も、本屋さんでなかなか探し出せないでいます。
果たして、あの頃の自分が「本をたくさん読む良い子強い子」だったら、もっとスルスルと話を紡げるのでしょうか?
もしくは、「良い読み手」として「名作」を読み重ねる「良い大人」になれたのでしょうか?

ただ言えるのは、「紆余曲折したからこと書ける話もある」ということでしょう。今書いている小説にも、仕事になかなかつけず、すぐやめてしまっていた頃の経験が反映されているように思います。
今の、nowの私にしか書けないことだから意味があるのでしょうか。

それは、物語を完成しきってからのお楽しみになると思います。
到底、50分の試験時間では間に合いません。
ショートショートの枚数でも……こればかりは作品によりけりでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?