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文字の売買ということ

 そもそもが、インターネットを解約した途端にインターネット上で稼ぎ始める、という手前の了簡がよく分からない(なにか結果としてそうなった)。「稼ぐ」というほどのなにかでは勿論ないわけだが、おあしはおあしである。
 もとを辿ると、私が執着してみているのは「365日連続投稿」のバッジである――「Note」のサイト上でバッジというのがあって、とくにそれを貰えたからなんだ、かんだというわけではないのだけれども、一年間連続で投稿し続けていればソイツがもらえるようになっている。なにかのトラブルで連続投稿期間をリセットさせたら落胆するのはたしかだが、当然そのバッジのみが純然たる目当てというわけでもなく(当然)、これがある以上はじゃあ基準としてやればいい、そんくらいまで投稿してあとは続けるか否か様子をみればいい、というハラである。
 大体百日分の記事を終え(率直に云ってなんの負担も負荷もない。ストレスフリーである)、これからもこの調子で続けてゆけば宜しいのだ、自分はそうするのだ、ここでは。と依然思っているのだったが、なにかもうマン・マシーンになっている、ニューヨークのド真ん中にあるハーレクイン・ロマンスを生成してしまう機械のごとくに、ただその場の瞬発的勢いで書くから「何これ。こんなのは私好みでも私のセンスの文章でも、ねえ!」という記事さえ生まれ、それらを丸ごとぶん投げていくのがここであり、そして私はその状況なり状態を肯定する者である。こういうものを書き続けているのは宜しくない、というのと同時に、しかしなんにも書いてないよりは増しか、という判断があり、後者に比重を置くこととしている。バッジ貰えるまでは。
 それで問題は、今度、おあしを呉れる方が現れたことであり、これがつくづく分からない。非礼をはたらくつもりはなく、これはどう考えたって解せない。友人らからなにかが届いたりしているうちは、それはふざけ合っているだけであるから、分かる。しかし二、三ヶ月投稿を続けてきた今になって、お他人様の手が伸びて来たのである。
 まずはじめにマガジンが一本売れ、これはだれだ、今度はどいつだ、と私が友人らを恫喝しても答えが返って来ない(車もちゃんと蹴ったのだが)。
 ならば私が知らない人が、私を知って、目の端の端にであれ認知をした上でマガジンを買った、ということになる(友人たちが私の存在を認知しているのかどうかは私には分からない。少なくとも私の両親は私を認知していなかった)。それならば、街角に咲いたほっこりエピソード、あたかもオリバー・ツイストにも小公女にも抜擢されざる醜怪な孤児が、つやつやとしたリンゴを差し出された、みたいな美談で済んだが、翌日またマガジン購入者が現れた。購入者はNoteを始めて初期、どなたかフォローをしてゆかねばならぬ、というのでフォローをキメさせていただいた、つまりは緩くつながっている方である。まだこのリンゴはつやつやとしている。さらに引き続いて三日めにもマガジンを買ってくる方が現れて私は慄然とした。なにが起こっているのだ。怖い。もう買わないでいい、と思い詰める。マガジン一本二五〇円、それが三本なので七五〇円、……そう考えて大体からあげ定食くらいの度量の大きさが私にあったわけであり、上野の山家というとんかつ屋では、増税前は七五〇円で結構いいとんかつ定食が食べられたことも、私は知っているのである。
 かくのごとくして、自分がなにを売っているのか、なにが購入されてしまっているのか、よく分かっていない。まずそもそもが、文章などというものは無からなにかが生まれているわけでは断じてない、と私は思っている。仮令書物という体裁をとっているのであっても、そこでは無から虚無が生まれているだけであり、書店で本を買うというのであれ、文章という空の空を、精神の動きの過程であるのか、成果であるのかさえ両義的である他ないものを、私どもは掴まされているのである。分かりやすくいって、キオスクで西村京太郎を買っている人をみてその人がなにをその本に見出しているのか、私にはうまくは解せない、それというのはその当人がなにを買っているのかが分からないということだ。そしてそれはだれかがハンス・ヘニー・ヤーンの「岸辺なき流れ」を買っているのであれ、フーコーの「狂気の歴史」を買っているのであれ、字というものをめぐっては、同等である。どうあれその本質からみれば、文とは空無以上のものではない。
 あまつさえそれがインターネット上で(「インターネット上で」というのも私には暗示的に過ぎてよく分からない。光回線解約組の私の生活実感にとってインターネットというのはコンビニとか、ファミレスとか、くすんだ匂いの制服を身にまとった女生徒たちがか細い指先にシャーペンを遊ばせ自習に励む公共施設の自習室とか、世を儚みキンクマハムスターを見に立ち寄ったペットショップとか、「WiFiがある所がインターネット」なわけである。これをそのまま逆さまにして云うとコンビニがインターネットなのであり、するとコンビニがアマゾンに他ならないではないか)、なにかマガジンが購入されてゆくわけである。つまりはコンビニ同様なんでもあるところから、私なぞのマガジンが買われてゆくのであって、ネット時代の今はゲーム時代、ネット上には例えば「艦隊これくしょん」とかがあって、「艦隊これくしょん」内では結婚指輪を買うことができる。
 そうしてそれは、Noteバッジよりも有益なアイテムであることは論を俟たない。好きな駆逐艦と結婚してしまうことによって、その駆逐艦のレベルの上限が解放されて、どんどん強くしてしまえる。
 例えば私は望月や巻雲という駆逐艦が大好物だが(巻雲は1-5でしたっけ。あそこ周回してすぐ出したのだけれども解体してしまって、カン!カン!という凄い音が響き、それでリベンジで1-5を百周以上して手に入れた、得難い私の巻雲なのである。そして沖波という駆逐艦を手に入れることができないままゲームをクリアしてしまった)、強くなった望月は強いのであるから、基本はDMMアダルトが破算するまでずっと一緒に、望月とゲームを楽しむことができる。とどのつまり女が買える。結婚することによって愛着や絆がいっそう豊かとなり、望月とホッピーを酌み交わしたり、髪の匂いを匂ったり、西洋菓子のような甘い匂いのする巻雲の手のひらを掴みとってそこから浮気したりすることが出来(結婚指輪は幾らでも買えるので巻雲の指先にも、その時光るものがしっかり、あるのである)、そうしているうちにも私は底抜けに強くなった伊8であのクソ運ゲーに挑み、ミスクリックによる轟沈をしたり、演習で嫌がらせ好きのクソ忌々しいキッズが組んだクソほど強い戦艦どもに圧倒的に蹴散らされ、育て上げた娘たちの甘い脱衣を目にして愉しみ、それを糧とすることもできる。
 するうち秋葉原、とらのあな、駿河屋等で、駆逐艦を主題に採った高レーティングの薄い本を獲得することさえ出来、これらはしかし、いかに実用性に耐えないものであったとしても空無ではないと私は云いたい。

 十二月上旬

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。