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週刊誌という「世界」#6 毎日の張込みで学んだ"仕事訓"

首相秘書官を直撃

飯島秘書官の記事は独走スクープという形で話題となり、フライデーは数週間に渡って続報記事を出し続けた。業者との関係、怪しい公共事業、謎の補助金――。掘るほどにいろんな疑惑が湧きだしてきた。その後、いくつかのメディアも後追い報道を行うなど、業界内を騒がせた。

さらに、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったノンフィクション作家の佐野眞一氏までが議論に参戦する展開となったのは意外だった。佐野氏はフライデーが報じた飯島氏の疑惑について、本人インタビューを行い報道を批判したのだ。佐野眞一氏は当時は好きな作家の一人だったが、「権力側について言い訳を垂れ流すのはどうなんだ!」と僕とKデスクで議論をしたことを覚えている。とにもかくにも、スクープにはこれだけの反響が起こるということを僕は初めて体感した。

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官邸のラスプーチンと呼ばれた飯島勲氏

初記事のあと、飯島氏に僕は改めて話を聞くことを試みた。ゾロ目の携帯番号にかけると「アイ」というどすの利いた声で本人が出た。その巨躯のせいか息が荒い様子が電話口からも伝わってきた。

――フライデーの赤石と申します。別荘を建設したX社との関係についてお聞きしたいのですが?


「フライデーか。記事読んだよ。ハァハァ。キミ、いま私が何をしているか知っているか? 訴状を作るために印紙を貼っているところなんだよ。ハァハァ。金額が多くて印紙を貼るのがたいへんなんだ」


――そうですか。訴える、訴えないはは飯島さんの自由だと思いますが。


「まあいいや。じゃあな」

飯島氏はそう話すと一方的に電話を切った。フライデーを訴えるとは言わなかったが、「訴状」という言葉をあえて使うことで僕にプレッシャーをかけてきたのだ。訴訟の賠償請求金額が高ければ高いほど印紙の金額も多くなる。つまり巨額訴訟を覚悟しろ、と飯島氏は言外に言いたかったのだろう。“官邸のラスプーチン”と呼ばれた男の凄みを圧のある言葉に感じた。

佐野眞一氏は同書などで飯島勲氏を取材

だが、記事では事実しか書いていない。訴えるなら、すぐに訴えてくるはずだというのが編集部の見解だった。僕は携帯を見つめながら「飯島も焦っているんだろうな」と一人呟いた。

僕は週刊誌業界で言うところの「引き」があった。

「引き」があるとはスクープや写真をモノにできる“運”があることを指している。記者としては高く評価される才能の一つである「引き」だが、僕個人としてはスクープはマグレ以外の何物でもないことは良く分かっていた。Aさんが積み上げた企画を、僕は仕上げたに過ぎない。それでも半年間、なかなか写真を抑えられなかった飯島氏の疑惑写真を、担当した途端にいきなりゲットしたことで、僕は“優秀な”記者だと見られるようになっていた。

結果を出すことで編集部の信頼度はグッと上がる。Kデスクは僕にバンバンとメイン記事の仕事を発注するようになった。僕もスクープを知ったことで記者として、少し自信を持つことが出来るようになった。


Aさんなどから吸収した手法を模倣しながら自分でもネタを発掘出来るようになっていた。「小泉首相とタクシー会社の癒着」、「小泉事務所が事務所費を架空計上していた疑惑」など、新聞が後追いするようなスクープネタを、自分の企画として仕掛けることが出来るようになったのだ。自分で1からネタを考え、取材、記事を作れるようになったことで、本当の意味で週刊誌記者は面白いと思えるようになっていた。

記者はよくサッカー選手に例えられる。サッカーではいくらテクニックが高くても、走らないとゴールを決められない。その為、試合では走るための「モチベーション」がサッカーでは重要視される。テクニックがあっても走らなければゴールは出来ないし、逆にテクニックがないなら走ることでカバーすることも出来る。記者も同じだ。大事なのは「モチベーション」であり、「やる気」ではないかと僕は思っている。

僕は正式に記者の訓練というものを受けたことがない。先輩の仕事を見様見真似で追うのがせいぜいで、実績もキャリアもないし、テクニックらしいものは何も持ち合わせていなかった。それでも運よく最初のスクープにぶち当たり、その後いくつかのスクープを取る事が出来たのは、「モチベーション」だけは高かったからだろうと自己分析している。つまり、がむしゃらに走っていれば、ときにボールが目の前に転がってきて、ラッキーゴールを決めることも出来るのだ。

記者の基本は「張込み」にあり

昼は取材、夜は張込みという生活を送るなかで、最も多くバディ組んだカメラマンにTさんという人がいた。夜はだいたいTさんと一緒。車の中でターゲットの動きを観察しながら、様々な雑談をした。


「アカイシはさー。彼女いるの?」

秋なのにアロハシャツ姿のTさんが運転席から話しかけてきた。

フライデー本来の形からすれば、運電席でハンドルを握るのは記者であり、カメラマンは後部座席に陣取りシャッターチャンスを狙うというのがバディの定型だった。ところがTさんは運転技術が抜群で、かつ運転しながらシャッターを切れるという特殊技能まで持っていた。最初は僕がハンドルを握っていたのだが、Tさんから「オレが運転したほうが早いね!」と言われ、僕は常に助手席に座るようになっていた。

「もうかれこれ4年くらいいないですねー」

僕はターゲットの部屋の灯りを確認しながら返答した。

「ダメじゃーん。かわいい子を探そうようよ。前の彼女はどんなタイプだったの?」

「A子というんですが、仕事が出来て優しい人でしたねー。南野陽子似でした!」

「いいじゃん、いいじゃん! 何で別れたの」

僕は別れることになったいきさつを話した。

「むっちゃいい女性じゃん。なんでそんな理由で別れるかなー」

Tさんは明るくトークを続けた。僕は久しぶりに元カノのことを思い出して少しブルーになっていた。

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映画『SCOOP』では福山雅治がパパラッチの日常を演じた

このTさんも僕が大きな影響を受けた人物の一人だった。

彼のモットーは「楽しく仕事をする」ということ。どんな仕事でも明るさを保つというのが、彼の仕事術の最大の特徴だった。

「張込み」はシンドイ仕事である。映画『SCOOP』では福山雅治がパパラッチの日常を演じていたが、スクープ撮影が出来るような派手な動きがある日は稀。毎日8時間、時には10時間あまりの時間を車中で座っているだけということもザラにあるのが「張込み」という仕事だ。単調な仕事を嫌って不貞腐れる人もいるし、サボる人も少なくない。

でもTさんは違った。惰性になりがちな「張込み」仕事をいかに楽しいものにするかにいつも腐心していた。

あるときは公園でキャッチボールをしながら、ターゲットを観察したこともあった。「張込み」に熟練してくると、他の作業をしながらでも、ターゲットの動きをくまなくチェックする技術が身に付くものなのだ。より風景に馴染み、自然にそこに居続けるためにはどうするかを、考えたときに車中にいるよりも、キャッチボールをしていた方が馴染むという発想なのだ。

恋愛トークもその一つで、現場で雰囲気を作るためにはTさんと馬鹿話をすることが最も多かった。僕はTさんと仕事をすることによって、「楽しく仕事をする」ということの意味と価値を知ることになった。

つまらなく仕事をするという人は多い、特に単純作業に見える「張込み」を馬鹿にして適当にやる記者やカメラマンも少なくなかった。だが、そうした現場は得てして結果が出にくい。

なぜか。

それは身体や心が活性化していないと、張込中に眠くなってしまうというのがまず一つの理由。眠たい状態でいい観察が出来る訳がない。そして、惰性で仕事をしているとイザというときに身体が反応しないので、適切な判断や動きができなくなるというのがもう一つの理由。張込は「静」の中から小さな違和感を見つけて、次の展開や動きを予測していくという戦略ゲームという側面がある。つまり常に先を読み、展開を読まないと一瞬のシャッターチャンスを掴むことは出来ない。ただボーっと座っているだけでは出来ない、つまりバカでは出来ない仕事なのである。

「読みが大切」なのは取材においても同様。だから「張込み」によって観察眼を磨くことは記者としての成長にも繋がる。「張込み」が週刊誌記者の基本だと言われる所以はここにある。

パパラッチ写真の計算

「張込み」に限らず楽しく仕事をするということは、質の高い仕事をする上で重要だ。僕はTさん流の仕事術を、その後の記者生活でも一つの指針にしていた。仕事は楽しくやってこそ結果が出るということを、僕はTさんとの仕事から学んだからだ。

また、Tさんの写真技術も驚くべきものだった。

パパラッチ写真はボタン押すだけ、と思う人もいるかもしれない。だが、さにあらず。一瞬のシャッターチャンスをつかむためには様々な戦略がある。

ある日、当時自民党幹事長だった古賀誠が料亭である実力者と密会をしているという情報を得て、張り込んだことがある。バディは僕とTさん。古賀誠が実力者と店を出てくるところを、我々は抑える。撮影成功である。

写真を見ると陰影が見事に浮かび上がっている写真だった。その光の加減が古賀誠という政治家の悪相を更に際立たせていた。

僕が「凄くいい写真ですね!」とTさんに言ったら、「まーねー! 光の位置と歩く歩数を計算してたからねー」とサラリと返してきた。

彼は楽しく仕事をするだけではなく、常に頭を働かせて現場を正確に観察しているのだ。

田中真紀子の写真も思い出深い。

当時、外務大臣として話題の人物だった田中真紀子だが、週刊誌で使用する写真は田中真紀子が白目をむいた顔とか、口が歪んだ顔などが定番とされていた。あえて醜い一瞬を切り取ることで、政治家の悪いイメージを引き立たせようというよくある手法だ。余談だが田中真紀子はあまりに週刊誌などで自分の変顔写真が掲載されるので、記者会見で自分のプロマイド写真を配り出したこともあった。(もちろんそんな写真を使用する週刊誌はなかったのだが)


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週刊誌では政治家の変顔写真を掲載するのが定石だった

カメラマンには田中真紀子の変顔を撮影することが期待されていた。ところがTさんが撮影した一枚は違った。ホテルの窓に影絵のように浮かび上がる田中真紀子のワンショットを撮影してきたのだ。オレンジ色の光に黒く浮かび上がる田中真紀子のシルエット。僕は唸らされた。田中角栄の娘として持て囃されながらも、他人を召使としか考えることができない“彼女の孤独”が写真から浮かび上がってくるように思えたのだ。“淋しき越山会の娘”という雰囲気で、凄くいい写真だった。

クリスマスイブの電話

2003年のクリスマスイブの日。僕は相変わらずTさんと車の中にいた。ある女性政治家のデートシーンを撮影しようという企画だったが、ターゲットは家の中から出る気配がない。もしかしたらクリスマスの予定はないのかもしれない。

「動く気配ないですね」

僕はフロントガラス越しに夜空を見上げながらTさんに話しかけた。

「しばらくなさそうだねー。ところでアカイシーはさA子ちゃんとは、その後連絡は取ってないの?」

ふいに聞かれた。

「僕から去っておいて、連絡出来るわけないですよ」

「そんなことに拘ってるなんて、つまらない男だねー」

Tさんはケラケラ笑った。

(連絡か・・・)僕はそのころよく考えていたことを思い返していた。僕は女々しくも、あの別れた日に「もう一度、自分から交際を申し込む」と彼女に言った言葉に拘っていた。新しい彼女をつくることに消極的だったのも、それが理由だった。記者としてはスクープを何本か取り、それなりに軌道に乗り始めたといえる。今だったらあの時とは違う形で、A子と向き合えるかもしれない。そんなことをここ数週間考えるようになっていた。

「ちょっと電話してきてもいいですか?」

とつぜん僕は言った。

「なになに? 行ってこいよ。現場は任せとけ」

勘のいいTさんは僕の行動に察しがついたらしい。

僕は車を降りると、マンションのエントランス横に歩を進めた。携帯電話をポケットから取り出す。寒いビル風が吹きつけるなか、彼女の番号を押した。

〈ビー、ビー、ビー、ビー〉

僕は心臓が潰れそうな思いでコール音を聞いた。いま彼女は何をしているんだろう。4年前の別れたあの日から彼女に連絡を取ったことはなかった。

「もしもし?」

出た。

「A子? 久しぶり。電話いい?」

「…うん」

「どうしてるかな、と思って。いま僕は雑誌の仕事をしているんだ」

「…うん」

「A子は驚くかもしれないけど、フライデーという雑誌で記者をしていてさ」

僕はやや早口で話し続けた。なんて話したら、言いたいことに辿り着けるのか。

「四年間大変だったけど、いま仕事がやっと面白くなってきてーー」

「…うん」

返事がおかしい。A子がどこか余所余所しい。

「あれ? どうしたの。もしかして誰かいる?」

「…うん」

「彼氏?」

「…うん」

僕のなかである予感が走った。優しかった彼女の言葉が重い事には理由があるはずだ。

「もしかして結婚するとか?」

「…うん。いま彼が家にいて…。来春に結婚することになったんだ」

A子は小さな声で囁いた。

「……」

頭が真っ白になった。二人でやり直せると信じ込んでいた自分の愚かさにやっと気が付いた。

「そうか。おめでとう。いい報告が聞けて良かった。幸せになってね。A子なら絶対大事にされるよ。じゃあね、また――」

僕は静かに電話を切った。

ここ数週間、思い悩んでいたA子との再会。しかし、思い切ってかけた電話は彼女との最後の電話になってしまった。僕はトボトボとした足取りで車に戻った。

「アカイシー、どうだった? デートするの?」
Tさんが明るい調子で声をかけてきた。

「いや。彼女結婚するらしいです。結婚…」

僕は項垂れたまま放心状態だった。

しばしの沈黙が流れた。Tさんも何か考えている風だった。

「別れて4年だったよね。A子ちゃんが4年も結婚しなかったということは、アカイシのことを真剣に考えていた証拠だよ。別れて、すぐ結婚してもおかしくない歳だった訳だし。真剣に付き合っていたという証だよ」

静かにTさんが語りかけてくれた。

この言葉は僕の心に深く染みた。

結婚という言葉はショックだった。「なぜ」、「どうして」という言葉が頭を駆け巡っていた。でも、「A子ちゃんが4年も結婚しなかったということは、アカイシのことを真剣に考えていた証拠だよ」とTさんに言ってもらい、やっと冷静になることが出来た。別れを切り出したのは自分だ。別れたとき彼女は30歳だった。いまは34歳になる。元彼が、いきなり4年後に連絡をしてきてまた付き合いたいと言うなんて虫の良すぎる話だ。4年という時間は長い。これは、いつも自分のことしか考えていないことへの報いなのだろう。自分で自分を責めたい気持ちになった。

「そうですよね」

僕は拳を何度もさすり、気を落ち着かせようとしていた。

「ヨシ 明日、仕切り直そうぜ!」

Tさんがキキッと車を急発進させた。流れるように車の少ない夜道を走る。僕はぼーっと窓から外の景色を眺めていた。街頭の光が流れ星のように滲んで見えた。

(僕には戻れる過去はない。週刊誌記者として前を向いて走り続けるしかない)

なんか強くそう思えた瞬間だった。

『大統領の陰謀』気分で横須賀へ

そのころフライデーの小泉政権追及は第二ステージへと入ろうとしていた。きっかけは永田町に撒かれた一枚の怪文書。そこには小泉純一郎が青年時代に起こしたあるトラブルについて書かれていた。怪文書では「●●●疑惑(●●●については怪文書では明記)」と書いてあるものの、ファクトの薄いボンヤリとした話だ。だが、Kデスクはこのトラブルについてフライデーで取材班を組んで調査をしようという方針を立てた。


「しばらく横須賀で掘ってみて下さい」
Kデスクはこう指示を出した。横須賀は小泉首相の生まれ育った地元である。


取材担当には僕と、I記者が指名された。I記者は僕よりフライデーキャリアは長いが、歳は2つ下。ほぼ同世代で反骨心が強いタイプの記者だった。事実を暴けば首相のクビ(週刊誌では辞任に追い込むことを、“クビを取る”と表現する)が取れるかもしれない。さながら『大統領の陰謀』のカール・バーンスタインとボブ・ウッドワードのような気分で僕らは横須賀に向かった。

トラブルは小泉氏と後援会関係者のなかで起こっていた。小泉青年はそのトラブルが原因で、逃げるようにロンドン留学をしたと噂されていた。まず僕たちが行ったのは横須賀での「地取り」だった。行きつけの喫茶店を拠点に、小泉後援会に入っている人を探し出しては、シラミ潰しに当たっていく。時には地図を頼りに人を訪ね、時には無作為に横須賀の街を歩いた。

それから数か月経ったある日、編集部でKデスクから声をかけられた

「赤石さん。週刊文春のMさんというかたが受付に来ているそうです。会いますか?」

「いまですか? 僕は面識ないですけど」

いきなりの話に戸惑った。

Mさんは文春の“女性四天王”の異名を持つ有名記者だった。神戸連続児童殺傷事件で少年Aの両親手記を取るなど20代から数々のド級スクープを放ってきており、業界では「凄腕」との評判が回っていた。そんな彼女が講談社の受付にアポなしで来ているという。

いったい何の用件なのだろうかーー?

(つづく)

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