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香り

 キャリーから荷物を取り出す。移動の後で疲れてはいるが、いまやってしまわないと、余計にしんどくなる。
 衣類の袋を開けると、ふと慣れない香りが鼻をついた。「よそ」のにおいだ。一枚ずつたたみ直してタンスへしまっていく。実家で母に洗濯してもらった服すべてから、「よそ」のにおいがした。
 心の奥がちくっとする。目をそらしても、現実は変わらないと突きつけられている気がした。

 結婚して苗字が変わり、うきうきすると同時に形容しがたいざわつきを感じた。そいつは、私の胸の中に居座るようになった。運転しないながらも、さすがに免許証はすぐに手続きをしたが、他の名前変更はなかなかすることができなかった。自分が消えてしまうような気がした。好きな人の苗字になれて嬉しい。その思いがないわけではないが、日に日にざわつきの方が大きくなっていった。
 そんなとき、財布を落としてしまった。再発行に伴い、すべてが新姓になった。財布とその中身とともに、結婚前の自分もなくしてしまったような思いに捕らわれた私を、底のない喪失感が襲う。

 一縷の望みを懸け、免許証の再発行はしないことにした。免許証は記載内容に変更があると、表はそのままで変更内容が裏に追記される。つまり、次回の更新までは、表は旧姓のままなのだ。
 しかし、再発行してしまうとどこにも旧姓は残らなくなる。失くして日が経った現在、もう見つかる可能性はほとんどないとわかっているが、どうしても踏み切れなかった。運転しないのであれば、紛失の届けさえ出していれば次回更新時の再発行でも構わないらしいので、先延ばしすることにした。
 その頃にはこのざわつきも消えているだろう、と期待している。

 「あぁ、帰ってきたー」先にパジャマに着替えた夫が布団に転がる。お互いの実家が自転車で10分の距離にある私たちは、帰省時には各自の実家に滞在する。夫のリラックスした姿を見たのは数日ぶりだ。思わず頬が緩んだ。
 急いでパジャマに着替えて、夫の隣にもぐり込む。「よそ」のシャンプーを使って、「よそ」で洗ったパジャマを着ている私は「よそ」のにおいに包まれている。
 実家を出る前にシャワーを済ませ、新幹線で夕食を済ませ、自宅へ帰るとすぐに寝られるようにしている。「うち」のルール。そう、私にとっての「うち」は夫と暮らすこの家で、ここでの生活が「日常」なのだ。

 実家を思い出す。ほんの1年前まではそこに住んでいた。自分の部屋の様子も、1年前に引っ越した時と変わっていない。服や化粧品など、今すぐ使うものは新居へ運んだが、私の部屋はまだまだ私の物で溢れていた。押入れの中のひな人形、タンスの上のランドセル、段ボールに詰め込まれた作品集。置いてきたものたちは、私が紛れもなくその家の子であると証明してくれていた。

 だけど、部屋の主はもう「よそ」が居場所になっている。誰のものでもない空間。思い返すと、とても不思議で、空虚で、いとおしくなる。

 結婚したのだから、自立しなければ。戸籍も世帯も、もう親とは別。保険の受取人だって変更した。私に何かあった時、きっと一番に呼ばれたり、私が意思表示をできない時に代わりに意思確認をされるのは夫だろう。
 だけど、何だろうこのモヤモヤは。

 夫の姓に、好きな人の苗字になれたことを喜べないのは性格悪い? ひねくれている? もしくは、親離れできていない?
 ううん、私が私を見つけられていないのかも。

 私が私であることは変わりないのに、呼ばれ方も、掛けられる言葉も変わった。妻は夫の付属品じゃないとか、そういう単純な話じゃない。それを言うなら、そもそもこれまでも「お子さん」とみられていたわけだし。
 ある意味、私が成長したからこそ、自分という存在について深く考えるようになったのかもしれない。ここからが、本当のスタートなのかも。

 はたちって特に何かがあるわけじゃなくて。ただ、便宜上決められた成人ってだけで。私にとっては今が自立の時なんだ。いろいろ考えて、自分の意見を持って。これから、本当の意味で自分の足で歩いていく。いつだってそう思っていたけど。

 きっと、こういう瞬間の連続が人生。


※私の結婚した2017年は、免許証の旧姓併記ができませんでした(2019年11月5日施行の政令改正により、同年12月から免許証に旧姓を併記できるようになりました。また、住民票やマイナンバーカードは政令改正同日より旧姓の併記が可能となっています)。

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