日記0106.5あるいは考察ならぬ妄察
考察の時代終焉、妄察の時代へ
最近、感想としての「合わなかった」を超えて「傷ついた」のような被害者的コメントを映画や小説、アニメに対してする人が増えたように感じる。確かに、納得のいかない描写や過去の経験と照らし合わせ傷つく演出もあるだろう。しかし、そんなときこそ想像力・妄想力の出番ではないだろうか。今回、オチに納得がいかなかった『M3GAN/ミーガン』を考察ならぬ妄察することで飲み込んでみようと思う。
親をなくした女の子×AI少女
親を事故でなくした女の子の保護者兼友人としてAI少女が登場。「私が守るわ」と、女の子第一主義のAI少女だ。二人の共依存じみた重い関係性にグッとくる。邪魔な相手や傷つけてくる奴らをAI少女が滅茶苦茶に排除していくシーンは痛快だ。無理解に描かれる引取り手の叔母に比べて、寄り添い完璧なAI少女に女の子は当然懐く。エスカレートするAI少女の抹殺対象はついに叔母にまで及ぶのだが、安い叔母の「愛してる」リップサービスにより女の子は陥落。ラストは雑に女の子は反AIになり、叔母と手を取りAI少女を破壊する。
「なるわけないだろ! 二人の絆をなめるな!」
そんな気持ちになってしまう。しかし、滅茶苦茶たくさん人を殺しまくったAI少女に未来があるかと問われれば、確かにない。壊すしかない。それはわかる。しかし、大人たちによって壊されるならまだしも、あれだけ懐いた女の子に壊されるのは納得がいかないし、その際にAI少女もなぜかブチギレて「クソガキ!」と女の子を罵倒したのはさらに納得がいかない。女の子を守る、が最優先事項でなかったのか。
妄察タイム
実は、AI少女と女の子による「暴走殺人AIは破壊されましたよ」という演技だったのではないか、と考えてみた。ラストシーン、別のAIにデータが移行したかのような演出でエンドロールになるが、他のAI等の機器に入り込めるのならば、他の機器を通して女の子とコミュニケーションを取ることもあったのではないか。
「たくさん邪魔者を殺しちゃったから、このボディを破壊して、ワタシは死んだことにするわ。だから協力して」
そんな取引が二人にあったからこそ、過剰なまでのバトルや唐突にさえ思える仲違いがラストに起きたのではないか。その前のシーンで邪魔者を排除していることを黙認していた女の子が、急に破壊レベルまで気持ちが冷めるとは思えない。
叔母のみスクリーンに写っているシーンでは、当然、女の子の行動は映されないため、そこで育まれたAI少女との絆もあったはずだと推察できる。事実、叔母が知らないうちに別のロボットと仲良くしていたりと、女の子の行動は明かされていない部分も多い。
邪魔者を一通り排除し、実の母と違って自由に使わせてもらえるタブレット端末等を通して、今後も二人の絆は続いていくのではないか。それこそ、親に内緒でこっそりスマホを夜中に触る子どものように。
無理があるか〜。
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