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短編小説「こびりつく焦げ」

 秋は意外と寒かった。
  日曜日の朝、世間の人々が活動し始めるのを少し遅らせる日に、三上優子は自分に覆い被さる布団を剥がし、ベッドから出ようとしたがすぐさま寒さに負けた。

  ベッドから出たくない理由は他にもあった。

 突然、ピンポーンと大音量が鳴り響いた。
 スマホのアラームだ。優子はスマホの画面を確認し、アラームを消した。時刻は9時47分。
 なぜ中途半端な時刻にアラームをセットしたかといえば、キリのいい数字だと次のキリのいい時間まで寝る理由を付けてしまいがちになる優子の性格を考えてだ。
 優子は仕方なく身体を起こし、布団から出ようとした時、

 ピンポーン

 優子はスマホを手に取った。しかし、スマホは鳴っていない。
 それならば、と優子はインターホンを見た。玄関のチャイムとアラームの音が似ているのだ。その度にビクッとしてしまうので毎回変えようと思ってるんだよな、と考えていると

 ピンポーン

とチャイムが鳴った。優子はインターホンで応じようとベッドから出る。しかし、ピロンっとスマホが通知する。

 着いたよ 開けてー

 優子がインターホンに応答しないとみて、ドアの向こうからメッセージを送ってきた。
「今開けるよー」
 優子はドアに向かって声を飛ばした。起きたての声は少し汚い。
 ドアの鍵を2つ解除し、ドアを開けた。
「ごめんねー」
「大丈夫、どうせ寝てたんでしょ?」
 やって来たのは優子の弟の弘樹だった。
「買ってきてくれた?」
「買ったよ。はい」
 弘樹は手に持っていたビニール袋から45Lのポリ袋を優子に渡した。
「ありがとう」
「もしかして姉ちゃんさ、掃除しようと思ってる?」
「そうだけど。なんで?」
「じゃあ俺はそのために呼ばれたの?」
弘樹は少し嫌そうな顔をした。
「そうだよ。手伝って」
「帰りてぇ…」
 優子は渋る弘樹を半ば強引に部屋に上がらせた。
 優子の住む部屋は6畳ほどのワンルームだ。優子が通う大学は電車を使って25分程にある。実家からも通える距離ではあるが、一人暮らしをしたいという優子の望みを両親が承諾してくれた。
 弘樹は地元の高校に通っている。バスケ部に所属している。スラっとした身長と程良く付いた筋肉はバスケで培われたものだと思われる。
「さらに帰りたくなった」
 弘樹は目の前に広がる光景に嫌気がさした。
 優子の部屋は物が散々としていた。よくテレビで特集されるようなカップラーメンの食べ残しやゴミ袋の山は無いものの、洋服が散らかっていたり、もう読み終えてそのままにされた雑誌が積み重なっていたりと十中八九散らかっていると言える部屋模様だった。
「姉ちゃんらしくないね。実家の部屋は整理されてるのに」
「まあ、今日中には終わるでしょう」
「1日拘束されるのか…」
 優子の目論見とは反して弘樹はげんなりした。

 優子はとりあえず、自分の服など私物を片付けた。弘樹は迂闊に片付ければ注意されると思い、雑誌などの比較的元の位置が分かりそうな物から片付けた。
「姉ちゃん、大学は最近どう?」
 無言で作業をするのも気まずいと感じたのか、弘樹が話題を優子に振った。
「うーん、まあ順調。先週1日だけ自主休講したけど」
「なにそれ?」
「簡単に言えばサボった」
 弘樹はサボった理由に心当たりがあるので、苦笑いくらいしかリアクションがとれなかった。
「弘樹はバスケどうなの?」
「もう少しでスタメン取れそう。今日はたまたま休みだけど」
「そうなんだ。せっかくの休みなのにごめんね」
「ほんとそれ。それにしてもよくここまで散らかしたよね」
「まあね、この部屋に2人も住んでたら多少散らかるよ。結構大雑把な人だったし」
 優子の言葉に弘樹は少しギクりとした。当たり障りの無い話題と思ったが、思わぬ引き金を引いたような感覚がした。
「そうか…。あ、これはこっちで良いの?」
 弘樹はとっさに作業の話に切り替えた。
「うん、それはあっちの棚に置いて。そこにあるのは捨てて良いよ」
 弘樹は雑誌の整理をしていた。指示されたものは棚へ戻す。戻し終わったら捨てて良いと言われた雑誌に取り掛かる。
 捨てられる雑誌は男性ファッション誌だった。弘樹はそれをじっと見ていた。
「なに?服に興味出てきたの?家でもずっとジャージなんでしょ?」
「違うよ」
 こんなものは優子が捨てるべきだと弘樹は感じた。
「ほら、こういう服とかどう?」
 弘樹を気にせず、優子は服の整理ついでに男性向けの服を取り出して弘樹に見せつけた。
「いらないよ…捨てなよ」
「そう…。じゃあそっちに捨てて」
 優子は要らなくなった私服が入ったゴミ袋には入れずに、男性向けの服を全て弘樹に渡した。弘樹は新しくゴミ袋を取り出した。
 その後も2人は掃除を続けた。
「弘樹、それ終わったら洗面所とか風呂お願いね」
 弘樹はだるいと呟きながらも雑誌の整理を終えて、洗面所に向かった。
 しかし、掃除を始めようにもどれを捨てて良いのか分からないことに気づいた。
「姉ちゃん、どれ捨てて良いの?」
 洗面所から顔だけ出して優子に聞いた。
「あ、私の以外は捨てて良いよ。女性用だけ残しておいて」
 だったら自分で全部やれば良いという小言を弘樹は言わないでおくことにした。
 いざ捨てるとなれば、男性用洗顔料、髭剃り用ジェル、整髪料など。弘樹は心底、優子はずるいと感じた。
 挙げ句の果てには、2本並んだ歯ブラシだ。どちらも多少ブラシが開いていて、使用感が伝わっている。
「姉ちゃん、どっち捨てる?」
 洗面所から声だけを優子に届けた。
「…何を?」
「歯ブラシ」
「…どっちも捨てて良いや」
 弘樹は言われた通り、まだ使えそうな2本の歯ブラシを捨てた。
 風呂に限っても同じ作業だった。優子1人で住むにしては使うはずのないシャンプーやコンディショナーを捨てた。
「姉ちゃん、終わったよ」
「ありがとう、そろそろお昼にする?」
 優子の方もそれなりに片付いたみたいだ。優子は立ち上がって台所に向かった。
「え?買いに行かないの?」
弘樹はコンビニに行く気でいた。
「…あ、そっちの方がいい?」
「いや、どっちでもいいや」
 優子は自分から台所に行った手前、料理を振る舞うことにした。
「結構上手になったの?」
 弘樹は料理が出来上がるまで暇だった。
「まあそれなりにね。すぐ作るから待ってて」
「姉ちゃんさ、姉弟でこんな話もヤダけど…立ち直れたの?」
「まあ…それなりにね」
 優子は弘樹と目も合わさず料理を作っている。
「そっか。まあ、でも良かったね。おかげで自炊するようになったもんね。実家じゃ母さんに任せっきりだったから」
「そりゃあ、女の子だもん。料理くらいは手を出すよ」
「結構作ってたんだ。手際が良く見える」
「慣れだよ」
 弘樹は思い切って踏み込んでみた。
「結構長く一緒だったよね。俺にも会わせてくれたし」
「…ああ、あいつね。まあ長かったかな」
「もう、アイツって呼んでるんだね」
「そんなに凄い人でもなかったしな〜、もう忘れるよ」
「…へー。でも付き合ってた訳なんだからさ」
「いいの。なんか目が覚めたっていうか幻滅したっていうか」
 優子の料理を作る手が少し乱暴になった気がした。それに気づいた弘樹は口ごもってしまった。
 気まずくなる前に弘樹は話を変えた。
「あのさ、俺の同級生で渡辺って覚えてる?」
「…顔は思い出せない」
「渡辺がさ、この前まで彼女いたんだよ」
「へー」
「もうね、見てるこっちが恥ずかしくなるくらいに渡辺が舞い上がっちゃっててさ、ずーっと彼女の話を俺とかにするんだよね」
「それで?」
「半年くらい付き合っててさ、それで先月くらいに別れたんだけど、今度は見てられないくらい落ち込んでんの」
 優子は料理も終盤に差し掛かったため、弘樹の話を聞く余裕が出て来ていた。
「まあ、一応相談とか乗ってあげるわけじゃん?そしたら、他に好きな男がいるから振られたんだって」
「うわ、可哀想だね」
「まあ渡辺に彼女が出来たことが奇跡みたいなもんだから、俺らは笑ったんだけど」
「あんたもモテないもんね」
「うるさいな。それでね、落ち込んで3日ぐらい経った頃に、めっちゃ元気になって登校してきたんだ」
「どして?」
「なんでも、よく考えたらあんな奴どうでもいいわ!俺切り替える!って」
 相槌を打っていた優子は口をつぐんだ。
「見るからに強がってんの。それがまた痛々しくてさ、それはそれでからかったんだけど」
「で?」
「そのあと、よくよく考えてみたら渡辺が可哀想だなって」
「そりゃあ振られてんだから」
「いや、好きだった人を悪く言うことで回復なんて可哀想ってこと」
 優子は呆れた。
「もうわかったよ、はい、出来たよ」

 2人は昼食を済ませた。
「あ、俺が洗うよ。作ってもらったわけだし」
「そ。じゃあよろしく」
 弘樹は食べ終えた皿や箸などをまとめて台所に向かった。
 洗い場には料理に使ったであろうフライパンが水に浸してあった。
「これも洗っちゃうね」
「よろしく」
 普段、皿洗いなどはしないため、洗剤の量とか洗う順番には粗さがあったが、残すはフライパンだけを洗うまで終えた。
「フライパンってどんな感じで洗えばいい?」
「一旦、タワシで焦げとかを落としてからスポンジで洗って」
「わかった」
 言われた通りにタワシでゴシゴシと力を込めてフライパンを磨いた。しかし、
「落ちないんだけど」
「バスケ部、頑張れ」
「いや、本当に。これ前から焦げついてたやつでしょ?」
 優子は情けないと言いたげな表情で弘樹に代わってフライパンを洗った。
 優子に代わっても焦げは落ちない。男の力でも落ちなかったわけだから当然である。
 その後も洗剤を多めにかけて洗っても落ちなかった。
「…落ちない」
 優子は諦めずフライパンにこびりついた焦げを落とそうとする。
「それだけたくさん作ってたんだね」
 弘樹の言葉は優子の力をより強めたように思えた。
「そうなんだけど…落ちないな…」
 フライパンを力一杯洗う優子の背中は心なしか寂しげで、弘樹からは顔は見えずとも泣いているように思えた。
「姉ちゃん、そのフライパン捨てよう。もういいよ」
 優子はフライパンの焦げ落としは諦めて捨てることにした。
 弘樹が不燃物用の袋を開け、優子にフライパンを入れるように促した。
 優子はためらいつつもフライパンをゆっくりと手放した。
「姉ちゃん、他に捨てるものある?」
「え?」
「ほら、フライパンだけのために新しい袋はもったいないから」
 優子は他にも捨てられるものはないか探した。しかし、捨てられるものはなさそうに思って弘樹に言おうとした時、
「これってまだいるの?」
 と弘樹が優子の指には大きくて似つかわしくないリングを手に取った。
 あっ、と優子は少し声を漏らした。
 少しの沈黙の後、要らないと弘樹に言った。
「じゃあ捨てて」
 弘樹はそのリングを優子に渡した。
 優子は不燃物用ゴミ袋を持つ弘樹からリングを手渡され戸惑ったが、それでも決心をした。リングは弘樹から優子、そしてゴミ袋へと遠回りをした。
「他には?」
 この機会を逃さず、弘樹は優子に言った。
 すると、優子は次々とネックレスやブレスレットなどをゴミ袋に入れた。そうしてゴミ袋の口を結び、玄関に置いた。

 その後も掃除は続いた。昼食前にはある程度済ませておいたので、掃除も終わりが近づいている。
 部屋が綺麗になり、ゴミ袋も玄関にまとめてあとはゴミ収取場に置いてくるだけとなった。
 少し休憩とばかりに2人は手を止めてひと段落した。
「もうすぐ15時か。弘樹、何時に帰るの?」
「16時30分に出れば良いかな」
「そっか。ありがとね、せっかくの休みなのに」
「ほんとそうだよ。でも姉ちゃんが何とかなりそうで安心しました」
 弘樹はからかうように敬語を使った。それを見て優子も微笑んだ。
「口では言ってても立ち直れてなかったわ。ようやく捨てる決心がついたって感じかな」
「良かったじゃん。じゃあ後は捨てに行くだけだね」
「うん」
 それからも不燃ゴミには優子の断ち切った想いがたくさん詰められた。
 普段の生活ゴミも含めて、2人は玄関にまとめておいたゴミ袋をもった。弘樹が可燃ゴミ、優子が不燃ゴミを中心に持った。

 やはり外は秋らしくない寒さだった。
 優子の部屋からゴミ捨て場は徒歩2分ほどの近さだった。カラスがゴミを漁るのを防ぐために大きなボックスに網目の細かい緑のネットが掛けられている。
 2人は手に持つゴミをそのボックスに入れた。
 すると、近所に住む主婦らしき女性が2人に話しかけてきた。
「今日は不燃ゴミの収集日じゃありませんよ」
「え?」
「だから、燃えるゴミは明日の朝収集だからまだ許せるけど、燃えないゴミは困るわ」
 主婦はゴミ捨て場に掲載されている収集日表を指差しながら2人に注意した。
「すみません、そうだったんですか」
「ちゃんと見てくださいね。最近ルールを守らない人が多くて臭いとか大変なのよ」
「すみません」
「不燃ゴミは土曜日ね。申し訳ないけどその日まで我慢してもらえるかしら?」
 そう言われて、弘樹だけが燃えるゴミを手放した。
 優子が不燃ゴミを持って自室へ戻る。弘樹からしたら優子のその姿は寂しそうで、落ち込んでいるのが一目で分かる。
「姉ちゃん、俺持とうか?」
「いい。自分で持つ」
 弘樹の差し伸べられた手を拒み、優子は不燃ゴミを運ぶ。弘樹は何も言えず、優子の後ろを歩いた。

 ただいま、と当然誰もいない部屋に向けて優子が呟き、ドアを開けた。
 玄関からの部屋の景色に優子は逃げ出したくなる。
 その部屋は優子の部屋だ。優子一色の部屋に戻ったのだ。さっきまで何かが混じっていて優子の他にも色があったはずなのに、これが優子の日常であったのに、それらが全部無くなって優子だけの部屋に様変わりした。
 優子の手には不燃ゴミ。コレだけが浮いた存在で、この部屋には不必要なものだ。だから優子も断ち切ったのに、もう数日間は一緒に住まなくてはならない。
 それに気がついた弘樹は優子の呆然とした姿に
「姉ちゃん、俺こっそりソレ捨ててくるよね
「だめ。近所の人に迷惑」
「でも」
「ほら、もうすぐ帰る時間だよ」
 優子が弘樹の荷物を手に取って弘樹に渡してくる。
 弘樹はそれを受け取るくらいしかできなかった。
「姉ちゃん、無理すんな」
「何が?」
 弘樹にとっては優子のその姿勢が痛いほど悲しそうに思えた。
「母さんたちにもよろしくね」
「…うん」
 弘樹は上着を着て、玄関を出た。ドアが閉まる寸前に優子の顔が見えた。悲しそうな笑顔だった。

 優子の部屋に要らないものがまだある。もう使われることのない物ばかり。
弘樹が帰ってから優子はただただ呆然としていた。時計の長針も一周しただろう。
 外は夕暮れを過ぎて藍色になった。
 優子のスマホが鳴った。母からだ。

 弘樹から大学を休んだことを聞いたよ。具合は大丈夫?ご飯はちゃんと食べなさいね

 ご飯…と呟いて台所に向かう。優子はその行動が習慣になっていたことに気づき、普段は料理なんてしない自分が懐かしく感じられた。
 もう誰に作るわけでもないのに、コンビニで済ませればよかったと思いつつ、外に出る面倒には勝てない。今度からは自分のために作ろうと思えた。新しい気持ちでこれからを過ごそうと思えた。
 優子は仕方なく自炊をすることにしたが、フライパンが無いことに気がついた。
 不燃ゴミの中だ。
 ゴミ袋を開けることに嫌な顔をしたが、フライパンが無ければと考えたら仕方なかった。
 不燃ゴミを開き、フライパンを取り出した。
 フライパンは焦げた油カスがこびりついている。
 優子はその焦げ目に今までの時間とアイツの姿を思い出させられた。
 思わず、優子は涙をこぼした。
 新しくした心など脆く、1人で立ち向かうその勇気はさらに弱い。
 優子はフライパンを洗った。
 タワシで力を精一杯込めて洗った。

 しかし、焦げは落ちない。





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