見出し画像

雑学王のカメラマン、本を読まない編集者


団塊ジュニアの私のざっくり職務経歴。

●大学1年生のときに4年生が就職難に(就職氷河期の始まり)。自分の時も当然、氷河期
●何とか滑り込んだ小さな実用書の老舗出版社で営業。都内、神奈川、東北、北海道をエリアに飛び込み営業
●激務&編集部に移れる見込みもなかったので3年弱で辞め、映画脚本の勉強をしながらアルバイト。
●ソフト翻訳会社のアルバイトを経て就職(そこもソフトウェア翻訳系。IBM子会社)。ここも激務で辞める
●派遣会社で複数出版社の編集部で校正・校閲
●派遣社員として業界紙(週刊)編集局へ。最長5年務める
●某業界誌(月刊)の編集部で編集者として十数年目。

•••ざっくり言うと、20代は出版業界のさまざまな角度から働き(営業、校正・校正校閲、新聞編集)、30代以降は編集者として同じ媒体でやってきた。

派遣社員での校正・校閲業務は、生活は不安定だったけど、こないだの『プロフェッショナル仕事の流儀』の大西寿男さんのような、ベテランの校正者の方と一緒の現場になって、いろいろと教わった。プロの人が言葉を真剣にとらえるさまはそれはかっこよく、当初は校正ができずに切られたりもした私だったけど、元来言葉が好きで凝り性だったこともあり、校正校閲は得意になっていった。

校正・校閲は雑学の知識が必須だ。誤字脱字を指摘するだけでは仕事にならない。新聞はずっと紙で読んで切り抜くようにしている。ニュースも、若者カルチャーも理解はできなくても、さわり、トレンドは追うようにしている。

ところで、私は仕事とは別に十数年、ボランティアで映画業界に携わっていた。そこで知り合った映画関係者さんと、よく朝まで呑んだ。
そこで会った年上の彼らと話していて何が楽しかったかというと、映画をつくりたい人というのは基本的に人間に興味があるので、人の話をよく聞くし、話す。特にカメラマンさんは博識な人が多く、こっちが1話すと10返ってくる感じ。

何でなのかと思っていたけど、ある時、あるドキュメンタリーの映画監督さんが言った。
「ドキュメンタリーは結局、監督じゃなくてカメラマンなんだよ」
どういうことか。例えば、ある家族を取材するとき。ドキュメンタリーは相手との信頼関係が第一。リビングに入れてもらって、相手がやっとカメラに慣れてくれて、こわばった表情も自然になってきて、ぽつぽつと私事を話してくれるようになる。かと思えば、また次の日には心を閉ざされたり•••監督もカメラマンも、カメラを向けて世間話をしながら、辛抱強く「その瞬間」を待つ。観客の心を打つ言葉が、場面が、対象者から出てくるまで。

その過程で、監督が思い描いた絵を外れて、取材対象者が思わぬイレギュラーな動きをするときがあるという(本人でなく同席者が泣きだしたり、子供が絡んできたり、とか?)。
とっさに、「こっちにカメラを向けたほうがいい」となる。その判断は監督でなく、カメラマンの力量なんだそうだ。
(確かに、劇映画のようにテイク2、3と撮り直せないし、監督が指示出したらその空気は壊れてしまうのだろう)

一緒に聞いてたカメラマンさんが言った。
「監督は撮りたい画のことで頭いっぱいだから。監督と取材対象の関係を外から見ながら、世間話をして場を和ませたりするのは、カメラマンだったりする」
監督さんも笑って同意していた。
その「とっさに判断してカメラを振る」「世間話をして場を和ませる」時に、雑学の知識が生きてくるんだそうだ。
なるほど、だからカメラマンは揃って雑学王なんだ!と思った。(私調べですが)

相手がどんな話を持ち出してきても、返せる能力。
モテる人にも、営業マンにも、夫婦関係でも、言えるかも知れない。
「人と分かり合おう」という姿勢のある人は、実に魅力的だ。
「この文章をこうしたほうが相手に伝わりやすい」と常に考える、ベテラン校正マンさんたちの姿とも重なる。

さて、現在勤める編集部、年功序列の奥付の順番では、私はちょうど真ん中へん。新人ではないがベテランでもない、でもベテラン寄りではある。
私は校正が前より得意になったが、私は人生の先輩方に教わった宝物のような知識を、後輩に伝えることができない。

彼らは編集者なのに新聞を読まない。本も読まない。読まないことを恥じない。校正が嫌い。地味な校正より、グラビア特集の企画やデザイナーと打ち合わせたりするほうが好き。

うちの媒体の表記は共同通信社『記者ハンドブック』準拠と定めているのに、統一表記すらできていないゲラを平気で出してくる。
なんか、『記者ハンドブック』の表記をチェックするアプリ(ソフト?)があるんだそうだ。それを導入しようと言いだしたときは呆れてしまった(そんなことさえ機械に頼る編集者って、、)。

「僕、あまり本読まないんで」

本が全てではないし、本を読まなくたっていいとは思うが、編集者がそう堂々と言うことに驚くし、それを聞いた相手がどう思うかに想像が至らないのかと思ってしまう。
校正も、がっちり鉛筆を入れられるのが嫌なのか、「サーっと読んでくれればいいので」とか言われる(これ、『プロフェッショナル』で大西さんも傷つく言葉として挙げていた)。
とがめられない自分、とがめ方が分からない自分にも、もやもやする。

とがめなくていいや、と思う自分もいる。なんかもう、相手にしたくない。人は人、私は私。
こうして、コミュニケーションを欠いたままの職場人間関係ができあがる。
「間違いではないんだし、いっか」という誌面が出来上がる。

赤字だらけのゲラを恥に思わないってどういうことなんだろう。
いろいろ我慢できなくなって、意見したら今度上司と面談することになった。
面談たって何をどう伝えればいいのか。
人間関係を諦めてないってことなのか、戦う場所が違うってことなのか。
私のコミュニケーション能力のなさも大きいんだろうけど、人に興味がある人、「1を聞けば10返ってくる」みたいな人がゴロゴロいる職場で働いてきた昭和生まれは、なんだか戸惑ってしまう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?