自分の軸で生きる難しさ
自分軸とか他人軸とか言う言葉を割と最近目にするようになった。この言葉の意味とは、あらゆる選択をするときに「自分がしたい方、心からいいと思える方を選べるのが自分軸」であり、「世間体を考え正しいと思う方を選んでしまうのが他人軸」である。だいたいそんな意味で使われてるように思う。
この2つの言葉は、誰が作ったのかは知らないけれど、辞書には載っていないと思う。私は、これらの言葉に違和感を抱いているし、口に出して使いたいとは思わない。その違和感っていうのはおそらく、分かりやすい言葉だからこその商業的な香りがすること、また、他人に合わせることイコール悪と思わせる極端な思考に陥ってしまう危険さがあるように思うことだと思う。
周りくどくて、分かりづらい書き方をしてしまったが、私にはどうしても人間の良さってもっと曖昧なものじゃないかなと思うのだ。
自分のしたい事ばかりを選択し続けて思い通りに進んだら、どんなにつまらない人生だろうか。
もっとも、周りに合わせて動いている人を見て、あの人は自分の事も自分で決められないのね、なんて上から目線で言うような大人になんかなりたくない。
例えば、自分の居場所を守るために食べたくもない甘ったるいクレープを皆と一緒になって食べた後に、帰り道ひとり、コンビニでカップラーメンを買って、部屋であぐらをかきながら行儀悪く食べる。そんなんでもいいじゃない。
「誘ってくれてありがとうだけど、クレープは好きじゃないから食べないかな。今日は無性に二郎系が食べたいから私はラーメン屋行くね。」なんて言えたら、なんてかっこいいだろうか。でも、それができないからあえて流されて生きていく。それってだめなこと?
人との距離が物理的に取れるようになったから、誰もが自分と向き合わざるを得なくなり、自分ってなんなんだろうとか、自分の本当にしたい事を考え直そうとか思うようになってきている。私もそのひとり。
子供の頃は、周りに溶け込むためにたくさん観察して、その中での「正しさ」を求めた。周りの空気を常に読み、自分の思う架空のいい子になろうとした。その結果、自意識過剰で承認欲求大のいわゆる"他人軸"人間が出来上がった。
ははっ。
いいことは、私のことを嫌いだと言ってくる人はほとんどいなかったこと。(面と向かっては、だが)
悪いことは、私のことを私が一番嫌いになったこと。
想像上の無難なことや正しいことは、やればやるほど自分を苦しめ、皮肉なことにその苦しみに一番自分が気づけない。
けれど、その時の自分を客観的に見て、間違ってると言えるのは自分だけであり、そう思えるようになったのが今だっただけである。
自分が何者であるのか、というのは長年の疑問であるけれど、結局自分は自分である。コジコジはコジコジだよ、である。
周りの空気を読んで他人に合わせて嫌々した選択でも、自分が心から望んでした選択でも、自分が選択したことに変わりはない。そこに自分がどんな意味を込めたかの違いだけである。
他人に合わせる自分の行動に心がざらっとしたら、それはきっと自分の本音に気が付いているから。けれど愛想笑いは、規則じみたこの世を生きる処世術なのだから仕方がない。
周りに反抗するか、自分に反抗するか、その選択の繰り返し。
流されて流されて行きついた先は、その人にしか分からない。
もっと、曖昧を楽しんで、もっと、情けない自分を愛したい。
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