俺と便意が運命のチキンレース【ショートショート】【#95】
その白いドアをあけ、ズボンを下ろすと、俺はあわただしく便座にすわる。
その時、初めてヤツの存在に気がついた。真正面のドアの下から30センチほどの場所。そこにいた1匹のクモ。それがヤツだ。大きさにして1センチに満たず、ごげ茶色。巷でもっともよく見るクモの姿と言ってもいいだろう。
自慢ではないけれど俺はクモがたいへん苦手だ。子供のころ、木々の間を走りまわって遊んでいてたときに、顔中にクモの巣にまとわりつかれ、慌てて取りはらってひと安心と思ったのもつかの間、足に5センチはあろうかという大きなクモがへばりついていることに気づいたのだ。その時は、誇張でなく本当に心臓が飛びでるかと思った。それ以来、大きさに関わらずクモという存在が苦手なのだ。
ここにはヤツと俺の2人しかいない。部屋にはカギがかかっており、誰も入りこむことはできない。――完全な密室だ。1メートルに満たない距離をはさみ、この密室で、俺はヤツと1対1で対決をしなければならないのだ。その上、便座に腰を掛けていることからもお分かりだろう。もよおしたのは便意であり、モノがでないことには、この場を立ち去るわけにはいかない。決着がつくのが先か、便が出るのが先かのチキンレースが今、幕を開けたのだ。
互いに、互いの間合いをはかり微動だにしない。……いやできない。はたから見ればただ止まっているように見えただろう。しかし実態はそうではない。己の持つすべての技術と、あらゆる手段を使い、わずかながらでも相手の寝首をかかんとする心理戦はすでに始まっているのだ。
ヤツのつぶらな瞳は、人間のそれ以上に奥行きを感知する。その上、ヤツが構えるのは壁面であり、こちらの動きのすべてがその視界の中におさまっているのは間違いない。下手にうって出れば揚々と返り討ちにされてしまうだろう。
「戦いは、始まる前に勝敗が決まっている」という格言がある。このごく小さなクモは、そこ格言を我がものとしているのだ。あっぱれとしか言いようがない。気がついたときには、こちらは防戦を強いられている。だがしかし、俺にだって負けられない戦いなのだ。ここで引くわけにはいかない。
――集中だ。それこそがこの場を打開する鍵だ。いかに相手が有利な立場であったとしても、それが相手の勝利を約束するものでないのは戦いの常だ。俺はまずはけん制とばかりに軽く手をふる。もちろんこれでどうかなるなどとは思っていない。実際、ヤツは微動だにしない。肝がすわっている。こいつ……できるな。俺は内心の動揺を悟られまいと、再びヤツをにらみつける。
このような場所で出会ってしまったことが我々の運命なのだろう。人生には避けられぬ出会いというものが何回かある。そのうちの一つが今日ということだ。――いいだろう、お前と俺と、人生をかけたその出会いには必ず意味がある。それがどんなに些細なものであったとしてもだ。それこそが運命の出会いなのだ。もちろん明日が存在しない敗者には、まったく必要のない言葉であることもまた確かだ。
その時ヤツが動く。
わずかに2センチ。時間にして半秒にも満たない。ヤツは体を右にずらす。「ふぉっぅ!」。危うく、声が出てしまう。いかん、動揺を悟られてはいけない。慌てて口をおさえ、ヤツの続く斬撃から目を離さんと改めて身構える。そして俺はその時、まだ気がついていなかった。敵は正面以外にもいたのだ。いやそれは俺の「内部」という方が的確だろう。
――そう、便意だ。
驚いた際の急な動きで、腹に力が入ってしまったのだろうか。絞るような感覚とともに、猛烈な腹の痛みが私を襲う。――もれる、このままではもれてしまう。いや、まてここはトイレだ。きちんと脱衣もして、便座に座っている以上、もらしてもまったく問題はない。というか、そもそも俺は便をしにこの場所に来たのだ。正しい反応だ。正しくないのは、俺が今、運命の相手と相まみえているこのシチュエーションなのだ。
だがそんなこちらの事情などヤツの知ったことではない。ヤツは俺の一瞬の気のゆるみを逃さなかった。ヤツは――飛ぶ。
その8本の足をムチのようにしならせ、俺の背丈の3倍はあろう高さまで、一足飛びにとびあがる。一瞬、太陽に溶け込むことでその姿をくらませる。そのまま重力を味方につけ、天高くから俺を目掛けて飛び降りてきたのだ。……もちろんこれは、俺の脳内で変換された誇張の入った表現であり、実際には10センチかそこらとび上がり、こちらに向かってきただけのことではあるが、俺にとってはそのくらいのオーラを感じたということである。あまりの衝撃に、悲鳴は声にならなかった。
同時に、腹部に抱える時限爆弾が限界をむかえる。『前門のクモ、後門の肛門』と言ったあの偉い僧侶は今も達者でいるだろうか。ああ、もう駄目だ。あの天井のライトが俺の死兆星か……。
薄れゆく意識の中で、俺はこのトイレという場所で最期を迎えることができたことに感謝していた。今しがた限界を突破した俺の便は、ただ流してくれればそれで事足りるのだから。誰に迷惑をかけることもない。この場所を選んでくれたのはヤツの最後の情けなのかもしれないな……。お前、強かったぜ。
そんな思いを最後に、俺の意識は途絶えた。
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