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償いの愛

「〜は許さない」ということが全面に押し出される作品は、つねに「説教臭さ」という敬遠される要素を持つ。一方、エンターテイメントを重視しすぎれば、「ただ面白いだけ」という理不尽な評価を受ける。
目指されるのは、社会批評とエンターテイメントが見事に調和した作品であるが、今回取り上げる『母なる証明』は、まさにその調和を達成していると言っていい。

『母なる証明』は、街のなかで「変わった子」として知られるトジュンと、その母親の親子二人の物語である。ある日息子が、女子高生殺人の容疑をかけられ、警察に連れていかれたことを契機として、母親は息子の無実を証明するために「真犯人」探しに奔走する。「あの人が真犯人である」と目星をつけて、その人間の自宅にまで足を運び、犯罪行為に手を染めてでもなんとか決定的な証拠を得ようとするが、うまくいかない。それでも彼女を突き動かすのは、「息子はそんなことはしない」という信念と愛情だった。

警察は「真犯人」として、ジョンパルという青年を逮捕する。ここで悲惨なのが、息子が犯人扱いされたのとまったく同じロジックで、この青年も逮捕されている点である。すなわち、「あいつは変わったやつ」という曖昧なイメージが根拠となっているのだ。もちろん警察は、物的証拠として「青年の衣服に付着した女子高生の血痕」をあげる。しかし劇中でも描かれるように、女子高生はよく鼻血を出していた。ある程度女子高生と親交のある人間であれば、その血に接触する可能性はあるだろう。つまり血痕だけでは、ジョンパルが真犯人であるという決定的な証拠にはならない。だが、トジュンがそうであったように、青年・ジョンパルも、自身の犯行を徹底的に否定して抵抗することはしない。その結果、ジョンパルは真犯人として、刑に処せられようとしている。

トジュンの無実を信じつづけた母親だが、彼女のその心情がある種の「罪悪感」から生じたものであることは見逃せない。まだトジュンが小さかったころ、貧窮から逃れるために、農薬を飲ませて無理心中をしようとした母親の行動は、許されることではないとはいえ、彼女に全責任を負わせられる問題でもない。現代社会において、貧しさのために自ら死を選ぼうとする人間を生み出してしまう国(政府)の責任も大きい(1)。『母なる証明』の社会批評的なメッセージはこの点にある。


【注】
(1)下川正晴は『ポン・ジュノ 韓国映画の怪物』(毎日新聞出版)の中で、貧困の問題を『母なる証明』の親子だけでなく、作中で殺害される女子高校生にも見るべきだと指摘している。

「この映画をめぐる日本での批評は、「母と息子」にフォーカスされてきた。だが、同時に重要なのは、サイドストーリーだ。殺害される女子高校生の売春をめぐる物語である。老婆と二人暮らしの女子高校生は、老婆との生活のために売春する。彼女のお客は、映画に登場する地元知名士たちである。」(P.99)

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