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『セレクションは気にしない!~12打数12安打11ホームランでも、まぁまぁはまぁまぁ』フットボールペアレンツ009

藍澤誠/Jの先生です。
セレクションで選ばれないというのは、親にとっても子どもにとっても、とても悲しいものです。

たしかにプロを目指すのなら「誰かに評価される」「自分をアピールする」という経験はとても大事だと思います。でも選ばれなかったときのガッカリ度は親子ともにさすがにありますよね。

「プロとして生きるなら自分を信じなくちゃ」
「何度もチャレンジすることが大切だよ!」
「失敗の数だけ成長できる」

という激励系

「オレはお前の才能わかっている」
「大器晩成っていうだろ。焦らずコツコツいこうね」
「今までも、これからも変わらずに応援していくから大丈夫」

という寄り添い系

「あいつらザコ。見る目ゼロだから」
「お前を選ばなかったことを後悔させてやろうぜ」
「OK、このチームを倒すのが次の目標だな」

という罵倒&リベンジ系

「プレミアリーグで優勝したバーディーは15歳から23歳まで工場で働きながらサッカーをやっていた」
「バロンドールをとったモドリッチも細すぎて選ばれなかったし、そもそも子供時代は難民という境遇だった」

といったエピソード系などなど、なんとかして感情を整理し、メンタルを立て直し、次の目標に向かうことになると思います。

たとえセレクションに落ちたとしても、それは親子にとって一つの重要な経験になるから大丈夫。人生無駄なことなんて何一つない――そうわかっていても、人から評価を受けられないのはつらいし、思い描いた道に進めない無念さはどうしても出てきてしまいます

これはスポーツだけでなく、受験においても、就職などにおいてもそうですよね。忘れている親は自分が一番悲しかった挫折を思い描いてみると良いと思います。

私とハルキ(現在15歳)の10年以上にわたるサッカーの歩みを振り返ってみても「この道で良かった」「現状がベストに思える」と感じているのですが、瞬間瞬間を切り取ると、すごく落ち込んだり「あのときの自分って自分だったのかな」と整合性がとれないくらい何かにこだわったりしていたことがありました。

でもハルキがここにきて驚くほど急激な成長を見せ始めた今、親である私が思うのたった一つ。

自分の目標に対して、本質的なことをやるだけ

これにつきます。

所属チームとか、人間関係とか、感情とか、思い描く物語的な理想はいったんすべて脇において、「目標に対して本質的なものは何か」と考えます。いろいろな要素を排除して、シンプルに自分の目標と自分の現在地だけを見る。

私たち親子が共通して思い描く理想の選手像は「シュートを相手より多く入れてチームを勝たせる選手」です。その理想に必要不可欠な要素は何か、それを身につけるためにはどうすればよいかと目標を絞っていき、現在その目標を達成するために、1つ1つの課題をクリアしている最中です。

久保建英選手が「チャンピオンズリーグに自分が出たとしても活躍できない選手としてそこに立つのはイヤだから頑張っている」というような発言をどこかでしていましたが(※不正確な記述ですみません)、プロ選手になるだけでなく、理想の選手として、いつ、どこで、どのように活躍するというところまで考えたときに、やるべきことがものすごく明確になります

理想の選手になるためには、相手チームより多くのシュートを入れなくてはいけません。それはとても難しい事で、そのために必要な要素はたくさんあります。誰かに高く評価されたり、セレクションに受かったり、良い環境を与えられたりしたところで、緊張度の高いトップレベルの試合で、ファン・ダイクとのマッチアップを制したり、ドンナルンマを相手にシュートを入れられるかというと話は別です。セレクションに受かっても、そんな選手になれるとは限りません

しかし実際に必要な要素を絞ってていねいに、確実に身につけていけば、少なくともその要素のうち、最も大切と思われるものが理想のレベルに近づいた時点で、周りの風景は変わり始めているはずです。バーディーもモドリッチも、見落とされた数年後に輝けたのは、周りが放置してはおけない何かを手に入れていたからじゃないかと予想します(※予想です)。

有名チームに入ることができたら、夢や理想に近づいたように思えます。しかし、自分が理想のレベルになれたわけではありません。そこを見誤っては、他者の評価に満足したり、周りの大人の都合により翻弄されたりという、別のやっかいな事態が発生してしまいます

野球のメジャーリーグにブライス・ハーパーという超個性的な選手がいて、彼がデビューした年に私とハルキはメジャーリーグを追っていて、もちろん親子で一発で好きになりました。その流れでたまたま、ボストンレッドソックスファンの李啓充さんのコラムを読んだのですが、ハーパーは12歳のときに出場した大会で、12打数12安打11ホームランだったのを、自己評価として「まぁまぁだった」と言いのけたそうです。

これはハーパーの豪快エピソードとして語り継がれているわけですが(wikiにも載っていた)ハーパーにとっては、文字通り「まぁまぁ」だったんだと推察します。ハーパーにしかわからない細かい課題や、相手のレベルとの関係、ビジョンがあって、その上で「まぁまぁ」だったのでしょう。

彼の目標はリトルリーグやハイスクールで活躍することではなく、一貫してメジャーリーグのトップ選手なのですから。しかしハーパー以外の人は、少年を「まぁまぁ」ではなく「エクセレント」と評価したであろうし、まだ何も成し遂げていないハーパーをほめない人はいなかったと思います。もしそこでハーパーが歩みを止めたり、現状に満足してしまっていたら……(その時点で足を止めてもすごそううですけどね)。

彼はトレーニングを続けると同時に、一年でも早くMLBに入るためにハイスクールの時代が短縮するよう飛び級を画策しました。舞台はMLBなんですからそこを目指すのは当然で、すでに周りが放置できない実力を身につけていたハーパーはすんなりナショナルズに入り、入団後もおそらくは自分なりの目標を次々とクリアして、大谷選手と同じく新人王、さらにMVPを獲り(2回も!)300億円以上の価値ある選手になっていました。次はワールドシリーズ優勝とそこでのMVPを目指していると思われます。

子ども時代にまわりが12打数12安打11ホームランを褒めても、その時点でメジャーリーグで通用すると本人が感じていないのであれば、それは「まぁまぁ」なのです。

自分が現時点で、将来の夢に届いているか。チャンピオンズリーグの決勝の舞台で活躍できているかを基準にして、自分の能力が十分足りている、そこにいるのがふさわしいと感じるまでは「まぁまぁ」だから、他者の評価、セレクション的なものを気にしても仕方がありません(※私たちにとっては、ということです)。

自分の目標との距離感で自分の到達度を自分自身で測る。目標に対して本質的なことをやって、得られた成果を積み重ねていく。その成果をもとにまた本質的なことをやっていく。道自体が大切ではなく、自分自身の実力と取組自体を大切にした上で、道が結果的にできていく。周囲の風景が自ずと変わっていくというイメージです

結果的にそうならないはずがないようにふるまう。必要条件を本質的なものから順に揃えること。ごまかしはゼロ、運とかそういう部分を除いた上で、物理的にどうやったらその状態が生まれるのかを考え、目の前の小さな目標をクリアしていく。

妻が昨日ファンタジックなことを言ってました。帰り道にアゲハチョウを観たそうですが、「あの子たちって自分が飛べないいも虫だったのに、いきなりきれいなチョウになって飛べるようになって嬉しいよね? あ、でも昆虫は嬉しいとかないのかなぁ。でも嬉しいと思うんだけどな」って。

塾で20年以上やってきて、子どもがいきなり大きく変わる姿を何度か目にしてきました。外からはどう評価されるかはわかりません。でも本人はずっと本人です。いも虫はアゲハになるためのプログラムを、生まれ持って体内に「遺伝的」に有しています。ところが私たちの「社会的な夢」は、「結果そうなる」ようにはプログラムされていません

だからこそ素晴らしいのだと思います。なりたいものになれるように、自由にプログラムできるのですから。自分でプログラムして一つ一つ実行していく営みこそ生きることであり、それを楽しく続けられることが幸せなことなのだと、私、藍澤誠/Jの先生は思います。お互い、プログラムした夢を叶えましょうね!

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