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咲かざる者たちよ(第二十六話)


 喜多山は目を覚まし、そこが病室であることに気づいた。まだ残る目眩を感じつつ、再び目を閉じようとした瞬間、眞島との約束が頭をよぎり、飛び上がるようにして身体を起こした。ベッドを囲むカーテンを力強く開くと、窓の向こうに夜の闇が広がっていた。喜多山が立ち上がろうとした瞬間、腕に点滴のチューブが絡まった。慎重に点滴のチューブを手繰り寄せながら窓まで歩くと、眼前にはただ無限の闇が広がっていた。煌々と輝く病室の蛍光灯が、夜の闇を一層際立たせていた。ベッドのそばにある小さなテーブルには、喜多山が倒れた時に握りしめていたリンドウの花瓶が置かれていた。花弁は蕾のままで、毒々しいほどの藍色を湛えていた。喜多山は眞島のことを思い浮かべ、深いため息をついた。
 その瞬間、廊下から足音が聞こえてきた。病室のドアが開き、若い女性の看護師が入ってくると、彼女は喜多山を見て目を丸くした。「喜多山さん!目を覚まされたんですね!」銀色のカートを押しながら、少し小走りで近寄ってきた。
「喜多山さん、大変でしたね。今は横になってください。明日また医師から説明がありますので。」そう言って、手際よく点滴を交換した。黒地に金文字で『赤井』と書かれた胸の小さな名札を見て、喜多山は花屋で眞島と出会った時のことを思い出した。その夜、眞島のことを思い続けるあまり、夜が明けるまで眠れなかった。

 喜多山は再び込み上げる吐き気で目が覚めた。外は雨が降り続き、どんよりとした雲が空を覆っていた。リンドウの花瓶を窓際に移し、眞島に想いを馳せながら、雨に濡れた窓をじっと見つめていた。
 ベッドの横に目を向けると、そこにはぺたんこの鞄が置かれていた。鞄を逆さにすると、薄汚れた手帳がぽとりと落ちた。「…あ」と声を漏らし、喜多山はすぐに最後に眞島と会った時の思い出を手帳で読み返した。手帳には、たった二十分間という短いひと時の会話や、眞島の仕草が細かく記されていた。ページをめくると、はらりと何かが落ちた。それは、眞島が握り合った手の中にそっと入れた手紙だった。喜多山はそれを拾い上げ、じっと見つめてから大きくため息をついた。

 昼食前、主治医が病室にやって来た。急いで姿勢を正そうとベッドから身体を起こした喜多山に、「そのままでいいですよ」と優しく低い声で言った。ベッドのそばの椅子に腰掛けた主治医の少し後ろに、昨日の若い看護師が目を伏せて立っていた。
「喜多山さん、伝えなければならないことがあります」と主治医は改めて喜多山に目を向けた。
 喜多山は目の前の主治医の、糊が効いた皺のない襟を一瞬見つめた。
「喜多山さんの胃に悪性の腫瘍が見つかりました。…癌です。しかもかなり進行してしまっています…。」そう言って主治医は喜多山に、哀しげな目を向けた。
 そう告げられると、喜多山は言葉を失い、歪む意識を必死に保とうとした。そして、長年続いた吐き気や目眩が癌によるものであったことに合点がいった。死すらも自分の思い通りにいかぬものかと考えながら、喜多山は心の中で何かが崩れ去る音を感じた。
 喜多山の肩が少し揺れたかと思うと、白目を剥いて笑い始めた。再び襲いかかる目眩の中、自分の不憫さに笑いがこみ上げてきた。背中を若鮎のように反らせながら苦しげに笑い狂う喜多山の手を押さえ、点滴に何かを注入する若い看護師の姿を最後に見て、再び喜多山は意識を失った。


 それからどれくらいの時間が経ったのか分からないほど、喜多山は眠り続けた。しかし、微睡の中で、自分の名を呼ぶ懐かしい声が聞こえた。それは眞島でも、祖母でも、母でもなかった。

「-喜多山君。喜多山君。ほら、目を覚まして。」

 喜多山が目を覚ますと、病室の壁にもたれかかった多々良がこちらを見ていた。
「なんで君がここに…。」
喜多山は呟くと乾いた咳をこぼした。それを見た多々良は、
「なんでって、喜多山君。よそよそしいなぁ。僕は君なんだからさ。」
さらに多々良は、
「僕はずっと知っていたよ。君の身体について。そうだねぇ、あの女性のこともね。確か眞島さんだったっけ?」と少し笑みを浮かべて喜多山を見つめた。喜多山は「うるさい!」と力強く叫んだ。そして目を閉じ耳を塞ぎ、多々良は自分が作り出した妄想の中の存在であることを言い聞かせた。すると多々良が、耳を塞ぐ喜多山の指を無理やり剥がし、わずかな隙間から囁くように「もう全て投げて終わらせてしまいなよ」と言うと、喜多山は力いっぱい手を振り回して多々良を追い払おうとした。ベッドの上で少し動いただけで息が上がる喜多山を黙って見つめ、多々良は窓を指さした。喜多山はベッドから降り、多々良が指さす窓の方へとゆっくり近づいていった。窓を開けて下を見下ろすと、ちょうど自分が住んでいたアパートの屋上と同じくらいの高さであることに気づいた。
「…どうせ何も叶わないんだよ。」暗い表情でそう言いながら、多々良は隣に立ち、喜多山の肩に腕を回した。そして続けた。
「お母さんと離れたくないという願いも、おばあちゃんとの時間を大切にしたいという願いも、眞島さんともっと深く繋がりたいという願いも、全てだよ、喜多山君。…人が持つ願いや理想の花は、こうして悉く皆、いとも簡単に散ってしまうものなんだよ。」多々良は終始、顔に悲しみを浮かべていた。喜多山は隣にいる多々良の顔を見て、同じように悲しい顔をし、もう一度下を見下ろした。冷たい風が首元から背中へと抜けると、喜多山は目を閉じて身体の力を抜いた。今ここで、風に乗って、まるで散った花弁が舞うように、速やかに落下できたならどれほど楽だろうかと思った。それは多々良にも聞こえていた。窓の枠に置いた手に力を入れ、目を開けて再び下を見下ろした。細かく鋭い無数の雨が下へ下へと落ちていった。
「もう、怖くもなんともないよ。どの道僕たちは死ぬんだよ。喜多山君。早いか遅いか、長いか短いか、たったそれだけのことだったんだ。」多々良は喜多山の身体を支えて窓の枠まで持ち上げた。喜多山も深い悲しみの中、覚悟を決め手に力を入れた。喜多山が大きく息をついて身体を持ち上げようとしたその瞬間、どこからともなく、冷たい風が覚えのある花の香りを運んできた。それは喜多山の顔を打ち、やさしく身体を包み込んだ。それはつい先日まで隣にいた眞島の匂いによく似ていた。喜多山は窓の枠にかかる自分の指に重ねて、絡む眞島の細い指を思い出した。
 喜多山の動きがぴたりと止まった。


「…やっぱりだめだよ、間違っているよ。多々良君。僕は…生きなければならない。それでも僕は生きなければならないんだ。お母さんやおばあちゃんのためにも、このリンドウの花を咲かせるためにも、そして眞島さんのためにも…。」そう言って、窓の取っ手に手をかけて静かに閉めた。
 すると、隣にいたはずの多々良は、いつの間にか姿を消していた。

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