咲かざる者たちよ(第二十一話)
朝五時になると静かにベッドから身を起こし、眞島は洗面台の前に立っていた。洗顔を済ませ、大小様々なボトルから液体を取り出し手際よく顔に塗り、紅色の櫛で栗色の髪を梳いた。ため息をひとつつくと明かりを消して台所へ向かい、コーヒーを淹れた。眞島は長い髪を後頭部でひと結びにし、素早く冷蔵庫を開けては、一つ一つの食材を丁寧にキッチンへと並べた。まだ薄暗い部屋に食材を切る音がリズムよく鳴り響く。
眞島は三十九歳、花屋から電車で二十分の町で夫と七歳の息子と暮らしている。
手早く夫の弁当を作り終えると音をできるだけ立てずに散らかった部屋を掃除し始めた。夫は今日も着替えずにソファで寝息を立てている。眞島は脱ぎ捨てられた靴下を無言で拾い上げ、重たいため息をつきながらそれを洗濯機の奥深くに放り投げた。すでにぬるくなってしまったコーヒーを飲み干すと、眞島は着替えを済ませて夫を起こした。
シャワーから上がった後も不機嫌な様子の夫は、眞島が用意しておいた新しいシャツと肌着を手に取り着替えると、弁当を乱暴に手に提げ、無言で家を後にした。
眞島の夫は眞島より三歳年下で、有名な外資系企業に勤めている。さらにここ数年、営業部で優秀な成果を上げ、出世街道をひた走るエリートだった。
眞島が夫と初めて出会ったのは七年前である。当時眞島がアルバイトをしていた居酒屋に来ていた常連客の一人が夫だった。
今年小学二年生になった七歳の息子は、やんちゃな性格で、夫に似て時折乱暴な面が垣間見える。
「こいつを殺せ!こいつを殺してしまえ!死ね!バーン!」と、息子はおもちゃを壁に向けて力強く投げつけた。その激しい言葉遣いに、眞島は静かに声を落として諭すが、息子は耳を貸さなかった。
息子の食事マナーは年々乱れるばかりで、眞島は再び深いため息をつきながら、彼を小学校へ送り出した。
床にまで落ちた細かいご飯粒が、椅子の脚によって潰し延ばされている。テーブルの下に屈んで、雑巾で拭き取っていると、椅子の脚にべとりとこびりついたご飯粒と夫の短く太い髪が絡みついていた。それを見ないように、さっと取り、できるだけゴミ箱の奥へ放り込んだ。そしてすぐにキッチンへ戻り、無言で食器洗いに取り掛かった。
昼までには洗濯物を干し終えて、仕事場である花屋へと行く準備をしていた。鏡に向かって化粧をしているうちに、「これだから高卒は…。」という夫の心無い言葉をふと思い出した。
決して裕福ではなかった家庭で生まれ育った眞島の夫は、学生時代、必死に努力し有名な大学を卒業して、現在の地位を得ることができた。毎月年老いた両親に仕送りし、よく週末に子どもを車に乗せて遊びに出掛けていた。それに加え、高い身長と整った顔立ち、そして社交的な夫の性格は、周囲からとても良い評判だった。一方で、眞島は夫とは対照的な暮らしをしてきた。生活に困ることなく学生時代を過ごし、高校卒業後は地元の小さい会社で事務をしていた。しかし眞島が勤め始めて三年目、景気の悪化に伴い、会社は他社に買収され、形式的には存続したものの、事実上の倒産となった。それから少し離れた町の商店街付近にある花屋でアルバイトを始めるようになった。
そんな眞島に対し、夫は家庭内でのみ、しばしば見下すような態度が見られるようになっていた。しかし眞島は現在のいい暮らしは夫のおかげであることから何も言い返すことができなかった。
過去に数度、ピンク色の名刺を胸ポケットに見つけたことがあったが、見て見ぬふりをして捨てた。
小学生になった息子が学校で起こした問題により眞島は小学校に呼び出されることがあった。どんなに叱っても息子の心には届かず、眞島はつい感情を抑えきれず、時には手を挙げてしまうこともあった。その度に、大袈裟に泣き喚く息子を抱いた夫は「少しは大人になれ。」「一度病院で診てもらえ。」などと眞島に対して心無い言葉をかけるのであった。
昼過ぎ、花屋の鍵をゆっくりと回し、開店準備に取りかかった眞島。薄給ながらも、家庭の閉塞感や夫子どものストレスから一時的に解放されるその空間は、眞島の精神の安寧をもたらす場所だった。静かに流れる音楽に耳を傾け、眞島は愛おしい花々に囲まれて黙々と仕事を進めた。これこそが眞島にとっての至福の時間であり、心の平穏を取り戻す貴重な瞬間だった。
ある日、夏の暑さが徐々に和らぎ始める季節、一人の痩せた青年が店に入り、きょろきょろと店内を見回していた。
「あの…。」
突然その青年が声をかけてきた。眞島は慌てて近づくとその青年が緊張しておどおどしている様子が一目見てわかった。青年の顔には、澄んだ瞳と長いまつ毛から、綺麗な鼻筋が通っていた。眞島は、自分の目の前で言葉に詰まるその青年の姿に、思わず心を打たれた。
「花の…名前が…知り…たい、です。」
そう言った青年の目線は一瞬自分の胸元で止まり、再びすぐに下を見た。花の名前を知りたくてわざわざ花屋を訪れてきてくれたその青年のために、少しでも力になりたいと思い、眞島は花の特徴を尋ねたが、青年の吃る声は掠れており、結局何を話していたのかは聞き取れなかった。
眞島は、足早に店を出たその青年の姿が見えなくなるまで、花屋のレジカウンターの中からじっと見つめていた。
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