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咲かざる者たちよ(第十七話)


 朝毎に、抑え難い吐き気とともに目覚めるのが常だ。午前六時半、窓を開けると眼下に広がる街はもう動き始めていた。コップ一杯の水を飲み干すと、そのまま花瓶の水を手際よく替えて窓際に置いた。喜多山は透明な花瓶越しに朝光を眺めると、何故だか強く外の空気を吸いたくなり屋上へと向かった。
 空には数羽の烏が戯れていた。静かな街に車が走る音が目立つ。喜多山は屋上で初めて街の様子をしっかり観察していた。そこから見る彩り豊かな屋根や家の外壁が朝日色と混ざってより美しく見えた。ふと日記を取り出しペンを走らせた。
「黄色の花瓶を買いに行こう。眞島さんならきっと『その方がリンドウが喜びますね。』と言うに違いない。」と書き、パタンと手帳を閉じて下の階にある部屋へ戻ろうと降りた非常階段に散見される細かな錆が、朝日を浴びて神秘的に輝いていた。

 喜多山は今日も花屋へ向かった。眞島の栗色の髪は後頭部の高い位置で一つに結われて首筋が露わになっていた。喜多山が抱く想像を遥かに超える眞島の美しさは、吐き気を伴って目覚めた朝の記憶を忘却させそうなほどに強烈だった。
「いらっしゃいませ。あ、お待ちしておりましたよ。」
 と眞島は柔らかい笑顔で微笑んだ。
「あっ、えっと。花瓶…が欲しいです。」と喜多山は不器用に尋ねると、
「あれ?その後、花瓶をお求めになると仰っていませんでしたか?」と眞島は、小川を流れる澄み切った湧水のように透明な声を出すとともに身体を半身喜多山の方へと向けた。眞島の動くたびにふわりと漂う香りに心奪われ、喜多山は目眩を覚えた。

「まぁ、素敵ですこと。今朝見かけた朝日色の花瓶をお探しですね。でも…リンドウさん、切り花としての新しい環境にまだ慣れていないのではないでしょうか?また花瓶のお引っ越しすると、リンドウさん、疲れてしまいませんかね?」と眞島はリンドウを思うように喜多山を見つめて言った。喜多山はこれほど底知れぬ慈悲を知らなかった。眞島の美貌の奥に、際限なく広がる思いやりと優しさが見え隠れしていた。それはかつて喜多山の母にも見えたものに似ていた。しかしもっと純度が高く、偽りのない優しさだった。
「その代わりに-。」眞島は続ける。「活性剤というものを差し上げます。花瓶の水にほんの少し垂らしてあげてください。きっとリンドウさんも喜びますよ。」と液体が入った小さい小袋を喜多山に渡した。
「ありがとう…ございます。」と小さく頭を下げる喜多山に、眞島は首を少し横に傾けて微笑んだ。
 気がつけば喜多山の頭はもう、眞島のことでいっぱいだった。

 数日続いた雨も上がり、曇り空の合間に時折、夏の空が垣間見えるようになった頃、喜多山はいつものように烏賊焼きを口いっぱいに頬張りつつ商店街付近の石段に座っていた。膝に手帳を広げ、日記を書いていた。そこにはリンドウとの出会い、眞島との会話、そして自分自身の人生との対峙の様子が事細かく書かれていた。ぱたんと手帳を閉じて空を見上げると再び雲の流れが夏空を厚く隠していた。雨が降る前に自宅へ帰ろうと立ち上がった時、静かに襲い来る目眩が、喜多山を包み込み、目の前が暗く閉ざされると、ゆっくりと石段に崩れ落ち、意識を失った。




 頬にぽつぽつと落ちる雨粒に気づいた瞬間、喜多山は眠りから覚めた。どれくらい眠っていたのかはわからないが身体を休めて少し目の眩みは治ったようだ。喜多山は立ち上がり、自宅へ帰ろうとしていたが、腰掛けていた石段に目をやると、すぐそばに眼鏡が落ちていた。綺麗な黄色がかった透明なフレームに細かい傷は少しあり多少の使用感はあるものの、手に取ってよく見れば見るほど、その丁寧な扱われ方が良くわかった。喜多山は地面からその眼鏡を拾い上げ、せめて石段の上にと、先程まで腰掛けていた場所にそっと置き自宅へ帰った。
 開けっぱなしにしていた部屋の窓を急いで閉めた時、大粒の雨が風に乗って窓を激しく叩いた。カーテンを少し捲り外を見ると、雨風が轟々と吹き荒れていた。喜多山はふと、石段の上に置いた眼鏡を思い出した。
「(持ち主はきっともう眼鏡を回収し帰宅しただろう。)」と心で考えた。しかしすぐに、「(もし誰も取りに来ていなければ、その眼鏡は今ごろ雨風に晒され、冷たい雨に打たれているだろう。)」と思うと、段々居ても立っても居られなくなり、喜多山は雨の中外へと飛び出した。
 喜多山は雨の中、息を切らし走り続けた。額に滲む汗はすぐに雨に流れ、背中は汗と雨が混じり合って衣服が張り付いて少し涼しく心地良く思えた。
 石段の前に近づくと、そのまま雨に晒されていた眼鏡を見つけた。喜多山はすぐにそれを拾得しポケットへ入れ、手帳を取り出しおもむろにペンを雑に走らせた。
『眼鏡拾いました。雨が上がったらまたここに置いておきます。』と書いたページを一気に破り、石段後ろの木の壁に強引に挟み込み、また急いで自宅へ戻った。

 四日間、止むことのない雨。しかし五日目の朝、空には虹が架かり、昼頃には、まるで嘘のように晴れ渡り、太陽が容赦なく照りつけていた。
 喜多山は商店街へと向かう道の途中の石段で思い出したようにぴたりと足を止めた。おそらく、雨風で拾った眼鏡の持ち主に残したメモは飛んでしまったのだろう。しかし通り過ぎる間際に手帳の紙とは全く違う色の紙が同じ壁に隙間に挟まっているのに気がついた。
 すぐに手紙を開けてみると、
『ありがとうございます。大切な眼鏡だったんです。もしよろしければ同じところに置いておいてくれませんか?』と細い字で書かれていた。
 喜多山は他者との再びの繋がりによって、深い満足感を感じていた。かつては自らの存在を疑うほどに孤独で、空虚な世界を彷徨っていたと感じていたのだ。しかし、烏賊屋の老店主や眞島、そして手紙がきっかけとなりできた新たな繋がりにより、喜多山は喜びを感じていた。
 眼鏡を取りに自宅まで帰り、喜多山は再び石段の前に立った。しかし石段の上はおろか、あたり一面降り続いた雨により水溜まりが広がっていることに気がついた。喜多山は掌にある眼鏡をもう一度見て少し考えた後、ポケットへ再びそれを戻し、手帳を取り出した。
『水溜まりが引く頃にきっと置きます。』と書いたメモを壁の隙間に挟み込みその場を離れた。

 いつものように烏賊焼き屋に立ち寄ると、老店主が突然、
「あんちゃん、顔色が相変わらず悪いね。」と老店主は低い声で、喜多山を直接見ることなく言った。頷くだけで何も言えなかった喜多山に、老店主は「でも、会うたびに表情は良くなってるな。あんちゃん…へへ、なんかいいことでもあったのかい?」と目尻に深い皺を作り笑顔で喜多山の方を見た。喜多山は聞こえない声で「…まぁ。」と目を逸らして呟いた。
 帰り道、老店主の言葉を思い出し、ふと、狭い路地にある低いカーブミラーで自分の顔を見てみた。喜多山は久しぶりに見る自分の顔に戸惑った。その顔は青白く、何か気味悪い感じがし、年相応にひらいた瞼の奥には黒々とした瞳がひっそりと光っていた。

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