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#66 京都に大学が多いのは、”時代の大波”に乗ったから

さて問題、どうして京都には大学がたくさんあるのでしょうか?答えは、都が東に移ったからです。みやこ(京)が明治維新で移った明治初め、それまでの公家や大名の屋敷が”空家”になったそうです。想像してみてください、東京にあるたくさんの官公庁や民間企業本社がどこか遠くへ一気に移転した場面を。それまでそこで生活していた人達、かなり焦りますよね。それまで時代の最先端だったミヤコが一気にゴーストタウンになる訳ですから、次のテナントに入ってくれる新規入居者を探しますよね。できれば、新しい時代を引っ張っていってくれる、若さに溢れて街を活気づけてくれるようなものを誘致したいですよね。

 明治初めの京都は、一気に近代化を推し進めようとして、琵琶湖疎水を京都市内まで引き込み、水力発電をしたり、琵琶湖との間で物流を行えるように蹴上にインクラインを作ったり、路面電車をひいたりと大いにがんばりました。その中で、同志社大学が新島襄によって建てられ、幾つもの大学が京都にできたようです。日本で一番パン食が多いとか、コーヒーをたくさん飲むとかと言う、ハイカラな面もあるのはこの明治の京都人の新規性の名残だと思います。

 島津製作所という京都で元気な会社がありますが、会社のマークは鹿児島の薩摩藩の島津家の家紋で丸に十字です。島津家と関係がありかと思えば、江戸末期に島津家が京都に滞在していた時にいろいろお世話した商人が、家紋と名字の使用を許されて「島津」を名乗ったそうです。2代目島津源蔵さんが作ったバッテリーメーカーがGSバッテリの会社だそうです。学生時代に工場見学で訪れた際に説明を受け、クラスのみんなでGenzoShimadzuとぶつぶつ呟いて、「すごいな京都人」と口々にして驚いたのを覚えています。江戸から明治に時代が変わる時、巨都の人達、目まぐるしい時代の動きにしっかり対応していたんですね。

 考えてみれば、今も同じような時代の変革期、パラダイムシフトと呼ばれる社会の仕組みが根底から変わる改革期かもしれません。海の大波に乗っている人は、見える範囲が狭いとなんとなく全体が動いているだけのように思うかもしれませんが、遠い場所から見るととても大きな波にサーファーの様に乗っていると見えるかもしれません。明治初めの京都人の様に、私たちも時代の波乗りを無事にスイスイこなして生きましょう。