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記憶の上書きではなく

 陽が低い。都心の街路でも、すでに黄色い落葉の時季は過ぎ、裸木が目立つ。冬へ向かう日差しにイロハモミジだけは頬を紅く染めている。
 妻から「気晴らしに」とリクエストされた公園まで行こう。

 そこではきっと、緑色だった芝も土と同化してしまっている。サンタの帽子をかぶった幼児たちが町内会のサプライズにはしゃいでいるかもしれない。少年たちは舗装された場所を選んで鬼ごっこをし、学生たちはサッカーボールと戯れているだろう。その躍動にやわらかな眼差しを向ける老夫婦がベンチにちょこんと座っていて、景色には欠くことのできない置物のようになっているはずだ。

 と、突然、めまいが襲ってきた。貧血か、と思った。
 天上から頭上に、ふわふわと小さな秋が降ってきたような気がした。


 ──紅葉を鑑賞する人たちが不思議でした。
 時季になると峠道に車が行列する光景が理解できず、紅葉狩りの何が良いのか、さっぱりでした。あまつさえ、懐が寂しいことや男女の心変わりを「秋風」と表現するので、秋には寥々としたイメージがあります。「秋波を送る」なんて言葉もありますしね。ちょっとイヤですよね。

 たとえば夏に台風がやってくると、わけもなく暴風へ向かって突進したくなる、そんな気持ちになったことはないでしょうか。肉体の殻からハミ出すような血気は、秋の風によって冷やされる快感を知っています。けれど、紅葉を楽しむ感覚は、どこを探してもないのです。

 確かに、紅葉は見た目にはきれいかもしれません。ですが、枯れてゆく木々を鑑賞する気には、どうしてもなれないのです。
 そう思いませんか?

 妻は、秋を好きだと言います。

「なぜ?」
「花粉がない。それに、食欲が出る」

 お互い、笑い出してしまいました。

 妻に刺激されたわけではありませんが、秋の紅葉嫌いが最近になって、くやしいかな、少し変わってきました。よく考えれば、木々の痩せ細っていく姿は、ただ滅びへの道を現しているわけではない、という至極まっとうな理解に、ようやく辿り着いたのです。

 いろいろな説があるようですが、紅葉〜落葉が樹木の代謝に関係していることだけは確かなようです。つまり、いや当然のことですが、わたしたちは、樹木の生命活動の、一工程を目の当たりにしているわけです。幹は枯れることなくドッシリとして、ただ枝葉が新陳代謝をし、春先になればまた青葉を茂らす、一連の生命サイクルを。

「紅葉から落葉となり、やがて山も笑う時を迎える」

 日本語は、生命維持のサイクルを何と豊かに表現するものでしょう。
 紅葉もまた、人の鑑賞に耐える、良きものなのかも、なんてね……。

 ひるがえります。
 人間も代謝をしていますよね。
 分子レベルでは、3ヶ月前の自分と今の自分はまったく違う人間になっている、とサイエンスは言います。ド文系が聞くと、何か哲学的で深いことを言われているようで感心してしまうのですが、ド文系はド文系なりに、勝手な想像力で科学的知見を飛躍させてしまいます。あまり突飛な話では、誰も相手にしてくれません。「アホなこと言ってるな」と思われたら、その文章は無価値に堕ちてしまいますが。

 ん? いったい何が言いたいかというと……
 体中の分子が3ヶ月で新しくなるのなら、紅葉そのものは変わらないのに小さな気づきによってその感じ方が新しくなるように、細胞同士のネットワークによって保持された人間の「記憶」にも、あるいは新陳代謝があってもいいのではないか、と言ってしまいたいのです。それも人が生きていく上で必要な生命維持活動ではないか、と。

 人は「忘れる」から生きていける、とよく言われます。
 人は自分に都合の良く記憶を書き換えてしまう、とも言われます。

 しかし、きれいさっぱり忘れられるわけもなく、古い記憶の代わりに別の記憶を上書きするのでもありません。

古い記憶の表層が、枯れ葉の落ちるように剥がれ落ちてゆく。
すると、それまで見えなかった新しい面が浮上してくる。
そいつは、今までと同じ形なのに、どこか違う顔をしている。
だから、いろんな方向から見ようと試みる。
どうやら、やっぱり、どこか違っている。
しかし、記憶の幹(事実)や、全体の在りようは変わらない──

 無理があるかな。。。

 もうずいぶん時間が経つのに、いまだ夢に出てきて目覚めを悪くする記憶があります。おそらく最期まで付き合わなければならない記憶の塊かもしれません。心だけでなく身体をもエグられた記憶を、それでも自分にとって必要だったと思えるようになったとしたら、それは、そいつが脳細胞と一緒に新陳代謝したからではないか……
 そんなふうに、ちょっと、思っただけです。

 代謝を促進させるには、有酸素運動が大事だと、これもよく言われます。
 記憶の新陳代謝にも、運動が大切な気がします。ああ、もう行き止まりだと思っても、とにかく動く、じたばたであっても動く。動いて、動いて、動いていると、それまでの記憶の塊も新陳代謝が促進されて、いつの間にか新しい顔をしている、どこか違って見えてくる、気づかぬうちに自分の立ち位置も変わっている……それは、大嫌いだった紅葉が含蓄のある光景に見えてくるように。
 そんな感じかもしれません。
 そうならないかな。

 動くこと、それは「生きている」こと。

 これが、ついさっき
 ふわふわと天上から降りてきた、紅葉色の小さな秋でした──


 隣を歩く妻に、言ってみようかどうしようか。

 露骨に嫌な顔をするに違いない。
〝ただ自分の思い出を語りたいだけでしょ〟ってね。

 まぁ、いっか。

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