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Orange

 桜子はいつものようにベッドの上でスマホの画面をスクロールしていた。鬱症状のせいで、更新されないタイムラインを擦りつづけてからもう7時間が経とうとしていた。眠れない孤独感に苛まれることが怖くて、電源を落とすことができなかった。それでも、誰彼構わずに電話をかける機会は明らかに減った。
 桜子はあたまの中で集会をひらく。
Hi, everyone. I’m Sakurako. And I’m addicted (to calling someone when she feels lonely and also sleeping with them once in about three times).
 Hi, Sakurako.
The first time I came here is about a month ago. At that time I got really tired of doing nonsense like wondering what it felt like to take a bite mantis or like looking up at the ceiling for a very long time and I felt sick and eventually fainted. Or like checking my whole body literally my whole body if there's anything wrong the entire day.
I don’t even want to do this. Just couldn’t stop doing regardless of my will.
But one day, I found a way not to do such ridiculous things anymore. That was to call or see someone who doesn’t know about me(Sometimes slept with her or him you know). And I was so into it. It made me feel so relieved and so lonely but it was the very freedom. And there’s always two sides to everything and the bad one in this situation is… My mom who is too much worrier and has OCD started crying every night. And one day I saw my mom, overdosed, in bedroom, and I thought “I want to change”. My mom recovered and she is also trying to cope with it.
 I think it’s getting better and I feel so good about it.
 あたまのなかがすべて英語なのは、最近観た海外ドラマの影響だった。桜子はエイミーというメガネをかけた中年の女性から、30days と書かれたコインを受け取った。ビビッドなピンク色をしていた。桜子は誰彼構わず電話をかけてしまうことを、ひと月もやめられていた。向こうからかかってくることはあった。その度に足が震えて動悸がして、スワイプ寸前まで指が動くのだけれど、すぐに電源を切ってスマホを放り投げて、天井と睨めっこ(ベッドに寝転んでいるので失神することはない)した。深呼吸をした。落ち着いたところで、身近な人以外の連絡先、思い当たるすべての誘惑をこの世から抹消した。
 それをしてすぐは、体が軽かった。心のなかが空っぽになって、風通しが良くなるような気がした。でもそれは確かに孤独と呼べる空白で、飽きが来るとやはり、駄目だった。さきの集会で桜子は、母が強迫性障害を患って薬を過剰に接種したことを告白したが、あれは嘘だった。桜子は母の顔をみたことがない。物心ついた時から父と暮らしているので、それほどに愛してくれる母親という存在に憧れていた。
 スマホの画面が、着信に切り替わった。
 この配色をみただけで、脳が締め付けられ、呼吸が上手くできなくなるような気がした。
 着信は、くまくんからだった。くまくんとは、最近オンラインで知り合った男の子で、そういうのはもう辞めにしたのだけれど、この子だけは今までの人達とは違って、彼女にとって特別だった。くまくんは無闇に会おうとしてこないし、会話の波長がよくあった。知識とユーモアがあって、ひとの噂話の時にだけ漏れる、シニカルな笑い声が桜子はとても好きだった。カラフルなクマの形をした洋菓子をこよなく愛し、晩御飯はいつもそれを牛乳に浸したものと決めているらしい。だから桜子はそのひとをくまくん、と呼んでいる。
「はい」
「さくらこ、いま平気?」
 くまくんの声は、落ち着いてしっとりとしている。低すぎず高すぎず、春に降る通り雨のように控えめな清々しさがあった。
「うん、平気だよ」
「何してたの」
「なにも。スマホ見てただけ。起きれなくなっちゃった」
「ああー。大丈夫? 薬は?」
「そばにないの」
「なるほどね。じゃあちょっと喋ろうか」
「うん」
「さいきんはどんなこと、考えてたの?」
 桜子は今朝のことを思い出した。夜中、仲の良い友だちと新宿で飲み歩いてから帰ったら、父親にタンスの中身をばら撒かれ、洋服がズタズタに引き裂かれていた、その光景が誰もいなくなったパーティ会場に見えたので、桜子は酒を呑んで音楽をかけてひとりで踊った。
「……朝、に入るお風呂が好き」
「うん」
「自分の肌が、つくりものみたいに感じる時がある、乖離とかじゃなくて、たぶん。ひとに思うように自分に、ただ、綺麗、って、思う。すごく綺麗、って」
「うん」
「わたしがもしもう一人いたら、私はわたしと付き合いたいかもしれない」
「その場合、今のきみと、もうひとりのサクラコは、同じときに同じことを感じるの」
「…ううん、ちがう、それぞれに感じるの」
「じゃあ、どちらかが本当の君から離れていくんだ」
 くまくんの問いかけにうまく答えられず、というより、熟考する必要があったので、桜子はそれから30分ほど黙ってしまった。そのあいだにくまくんは、食器洗いと洗濯を済ませたらしかった。
「あのね、どちらも私であって、思考パターンていくつかあるじゃない。それのAとBなだけなの。昨日のわたしと今日のわたしって、同じ人なんだけど、違うこと考えてる。でしょ?」
「昨日のサクラコと今日の桜子は、同じ人?」
「そうだよ。12時になったら変身でもするの? シンデレラみたいに?」
「んん、グラデーションはありそうだよね、どちらかというと、ゾンビみたいに」
「嫌なたとえ。」
「シンデレラも良い例えではなさそうだけど」
「オンボロになるものね」
「まあでも、老いとはそういうことだと思うよ」
 たぶん今、くまくんは目の前のお母さんをみつめている。くまくんのお母さんは、くまくんが中学3年の頃に倒れてから、ずっと目を覚まさない。くまくんが母と最後に交わした会話は、エドマンド・リーチの通過儀礼についての学説だったらしいが、桜子は説明されても分からなかった。”俺たちのようなあわいの存在は、忌避の対象になる”のだそうだ。もっと家族らしい会話をすればよかった、と嘆いたくまくんに、桜子はかける言葉が見つからなかった。家族らしい会話というのが何なのか、彼女には分からなかった。彼はそれから今まで父と協力して、自宅で母親の介護をしている、らしい。
「え、じゃあ、昨日のわたしは人間で、今日のわたしはゾンビなの?」
「常になりつつある、んじゃないかな」
「いやだー!」
「ううん、違うよ、例えが極端なだけで、そうやって変化し続けていくから、同じ人と言えるのかなって、そういう話」
「でもそしたら…… その原理を当てはめて考えたら、わたしは少しずつ本物のわたし、じゃなくなっていくってこと?」
「桜子、きみはいつも本物だよ。きみだけが本物なんだよ。」
 桜子は安堵して長い息を吐いた。切り裂かれた装飾品の散乱したベッドの上で、ちいさく体を丸めた。
「そっか。わたしだけが……、」
「きみは本物を更新しつづけていく。そうしないとだめなんだ。今を生きているひとには、そうする権利があるんだから」
 機械越しにくまくんの柔らかい吐息が聞こえた。
「じゃあ、やっぱりわたしと付き合う、てことは不可能なのね。どちらかがわたしじゃないなら、他人と一緒になることと同じだから」
「……その人が信じれば、できないことはないと思うけど。つまり、付き合うの定義を明確化すれば」
「鏡に向かって愛を伝えるとか?」
「うん。それは良いことだと思う。自分と付き合うことは、案外からだにいいことかもしれない」
「じゃあ明日から、もし起き上がれたら明日から、やってみる」
「うん」
「そして、くまくんにも同じときに愛を送っておくね」
「うん、ありがとう。俺もやってみるよ、桜子のこと、思い出しながら」
 桜子は気分が回復してきた。このままどこかへ飛んでいけそうだった。
「うん、ありがとう。またね、くまくん」
「うん、またね桜子」
 桜子は着替えたかったが他に着るものがないので、下着の上に辛うじて着けられそうなクロップド丈のTシャツ(片袖が切り落とされ右のみぞおちの部分にスリップが入っている、ウエストを抱きしめらるように入れた虎の手のタトゥーがよく見えてなかなかハイセンスだと思う)にスカイブルーのストライプのシャツ(これも袖がほとんどちぎられて前見頃は胸の下あたりでざっくりと切り捨てられている)を羽織った。ボトムスは黒いデニムのミニスカートのまま、サンダルを履いて家を飛び出した。
 帰ってきてから何も食べていなかったので、適当な店に入り、メニューの1番上にあるものを注文した。煙草に火をつけた。桜子は朝に入る風呂が好きだが今朝は部屋の姦しさのせいでたぶん入れていない気がするので髪の毛先が縮れていてそれに少しだけ苛立った。食べ物が来ないので手洗いに立った。排尿も24時間ぶりだった。桜子はまた息が苦しくなった。
 下着のなかに入れてある(いつ症状が出てもいいように、文字通り肌身離さず持ち歩いている)抗不安薬を口のなかに放り込み、トイレの洗面台の水を含んだ。
 蛍光灯に照らされた自身の顔、はやはり作りもののように思える。この空間も、今流れている時間も、くまくんと話したことも、彼の存在も、母親がいないことも、ベッドの上の引き裂かれた布たちも、机に突っ伏して泣くお父さんの背中も、乱暴に机を何度も叩く音も、耳が破れそうになるくらいの怒鳴り声も、繰り返される物質への暴力も、家が壊れていくことも、今まで一緒に夢をみた男の子女の子たちも、ぜんぶ、ぜんぶ。
 でも、桜子は祈っていた。混じり気のない、きわめて純粋な気持ちで、祈っていた。つくりものであろうとなかろうと、この世界というものが、平和であること、ここに存在するすべてのひとびとがすこしでも明るい未来に向かって、微笑みをうかべられること。
 桜子は自身に微笑んでいた。自分の明るい未来なんて思ってもいないのに、わらっていた。そして、これはすごく不思議なことのように思われるのだけれど、桜子は父の背中を思い出していた。父のなかに、母がずっといられますように、どんなに悲しくて世界に絶望しても、父は母をずっと、想っていられますように。
 席に戻ると、卓の上にはカレーライスが到着していた。ここのカレーはレトルトだということを知っているのだけれど、この空間で既製品の味を嗜むことに意味があると思うので頻繁に通ってしまう。皿はいつのまにか空になっていて、桜子はそれを食べた記憶すらなかった。それが安心だった。
 店をでると、あまりに気分がいいので、連絡先のゴミ箱を漁りながら数人の顔を思い浮かべた。そのうちいちばん話がつまらないと思うひとを選んで、電話をかけた。
 着信音。
 横断歩道。
 と、横をみると、水色の空に真っ赤な太陽が沈みかけているのがみえた、桜子はそちらをみつめて声がだせなかった。
「もしもし、サクラコ? お前、何してたんだよ心配したんだぞ」
「……燃えてる、」
「え?」
「太陽が燃えてる」
「サクラコ、もしかしてまた、」
 機械は桜子の左手をすり抜けて地面を打った。弾けた音につづいてまだ男が何か喋り続けていた。
 桜子は大きな太陽に向かって、手を合わせてお辞儀をした。どうかすべてが本物になりますように。わたし以外の何もかもが本物になりますように。風にのせて女性の声が聞こえたような気がして、桜子は聞き返したが何も返ってこなかった。
「お母さん」
 桜子は呟いて、踊り出したい気持ちとは裏腹にその場に崩れ落ちた、それからずっと、本当にずっと長い間、誰かの迎えが来るまで、そこを動くことができなかった。

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