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失敗することを許容する
失敗の先に、成功がある。
失敗なくして、成功はない。
こういった言葉は、たくさんある。
トーマス・エジソンの
「私は失敗したことがない。
ただ、1万通りのうまく行かない方法を見つけただけだ。」
という名言もそうだよね。
こういう言葉に勇気をもらうことはたくさんあるし、頭ではもちろんわかっているのだけど…それでもやっぱり、失敗することはコワイ。
失敗してしまった後は、どうしても、
“どうして事前に気づけなかったの?”
“あの時こうしていればこんなことにはならなかったのに…”
と自分を責めてしまい、なかなか抜け出せなくなってしまう。
“失敗”を恐れる理由を深掘りすると、「相手に迷惑をかけて、“わたしという存在”に失望される」というところに行き着く。
だからわたしの場合、多くの人と関わる仕事が苦手だし、自己完結できる仕事がいいなあと考えたりする。(チームで行うスポーツやイベントなんかもめちゃくちゃ苦手。)
今回この記事を書いているのも、仕事でミスをしてしまったことがきっかけなのですが。
迷惑がかかってしまったなあと、担当さんの立場に自分を置き換えてぐるぐる考えて、絶望して。
わたしが事前にそこまで気を回すことができていれば、担当さんの立場を悪くすることはなかったのに…とかね。
この失敗を次に活かせば良いということもわかるのだけど、今回の失敗が、実際に誰かに迷惑をかけていると思うと、申し訳なさでいっぱいになる。
これは仕事の失敗だけではなくて、対人関係全般に関しても同じことで。
何かの代表を任されたり、自分のサービスを提供したり…
そういうことに対して「やりたくない」と思ってしまうのも、“自分が関わって、他人に迷惑をかけること/失望されること”が怖いからなんだよね。
でもさ、「成功」や「やりたいこと」が「失敗」を重ねた先にしかないのなら、“他人に迷惑をかけずに生きる”という前提こそが、そもそも不可能なのだよねぇ。
そこを避けていたら、どうやったって“自分の望む道”に進むことはできない。
立ち止まっているしか“失敗”を避ける道はないのだから。
つまり、「自転車に乗れるようになるためには、大怪我をしない程度に転びながら、乗りかたを覚えていくしかない」のです。
本当は自転車に乗りたいのに、「絶対に転ばずに自転車に乗れるようになるにはどうすれば…?」って、スイスイ自転車を乗りこなしている人たちを、指を咥えて見ている。
けれど、自転車を乗りこなしている人たちはみんなやっぱり、転びながら「今」に至っているんだ。
「一切失敗をせずに、目標地点に到達する」という、ゼロヒャク思考を捨てよう。
「失敗すること」を、「誰かに迷惑をかけてしまう自分」を、許容しよう。
前回の記事で書いたけれど、そもそも「完璧」「完全」を求めることは、この世界では「不自然」なことなんだ。
迷惑をかけることを自分に許したら、迷惑をかけられることも許すことができる。
お互い様だよねと、自分も相手を責めなくなる。
みんながそう思えたら、それぞれが思いっきり輝ける、素敵な世界になるんじゃないかなあ。
もちろん、迷惑をかけないように最善は尽くすし、失敗したときには、それをこれからの未来に活かしていくことを大切にする必要がある。
けれど、どうしたって「完璧」は無理なんだ。
失敗からしか学べないことだって、たくさんある。
失敗したわけではない。
それを誤りだと言ってはいけない。
勉強したのだと言いたまえ。
ま、そうは言っても、簡単に気持ちを切り替えることはできないのだけど。
それでも、失敗に対して真剣に向き合って考えている自分はエライと、わたしだけはそう褒めてあげたいな、と思う。
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