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菜食主義とは何か。絶対が無いから多様性は存在する

今日は、私の菜食主義に対する考えを書こうと思う。動物愛護目的での菜食主義は良いとか悪いとか論争しがちな最近の風潮に一石投じたいのだ。

結論から言うと、今日言いたいことはニつある。

一つ目。私は別に肉を食べないべきとか、しっかり食べるべきだとも思わない。それはどこで妥協するかの問題で、人によって違うのは当たり前だということ。

二つ目。人にどうあるべきとか、強制するべきでないと思う。

言いたいこと1

人は生きている限り、命を何らかの形で奪っていると私は思う。不食の人や、体に太陽光パネルをつけて、そこからエネルギーを取れる人がいるなら、その人達は別だが。

まず、肉。これはわかりやすく、動物の命を奪っている。卵も、食べなければ、生まれてきたかもしれん命を摘んでしまっている。乳だって、人間のために牛たちは出しているわけではない。自分の子どものために作っているのだ。でも、そんなこと言ったら、果実だってそうだ。バナナだって桃だって葡萄だって、人間の為に甘い実を付けている訳ではない。種子が地に落ちた時に、その甘い実が栄養となり力となり、種子が芽を出せるようにするためだ。葉っぱだって、人間のために葉を伸ばしている訳ではない。なるべく光合成をして、自分の命を繋ぐために葉を伸ばしているのだ。どんな動植物だって、人間のために活動している訳ではなく、私達人間は、その動植物達の命や命に繋がるものを奪っているのだ。

要するに、人間は生きている限り、菜食だろうとなんだろうと不食でない限り、命を何らかの形で奪わなければ生きていけないのだ。

では、最近話題になることが多い、菜食とは、何なのか。また、肉を食べるとは何なのか。

それは単に、どこに妥協する点を持ってくるかという話なのだと思う。

数直線をイメージして欲しい。1番左端が、肉も乳製品も何でも食べる人だとするならば、1番右端は、肉も野菜も何も食べない不食の人。この左端と右端の間に、人の数だけ、プロットがあるのだと思う。どこで妥協するのかという点が。これは食べ物のこと以外にも、動物実験をしている薬は飲むのかとか、ファー製品は使うのかとかも含んだ点だと思う。そして、ベジタリアンとかヴィーガンというのは、代表的な点に過ぎないのだと思う。人の数だけ、自分はここがしっくりくるな、という点があるのだと思う。

肉も乳製品も何でも食べるという人。

肉は食べるけど、ファー製品は付けない人。

肉も乳製品も食べないし、果実も食べない人。

私みたいに、週に数回くらい肉を食べる人。

同じ人でも、その妥協点が人生の段階によって移動することだってあると思う。

ここで強調しておきたいのは、どの点が良くて、どの点は劣ってるなんて無いということ。

ベジタリアンやヴィーガンは偉いみたいな意見がある。

肉を食べないなんて馬鹿馬鹿しいという意見がある。

一見対照的な意見だけど、私は、この意見はどちらも違うと思う。というか、この平面上で、食生活について考えるべきでは無いと思う。みんなそれぞれ、自分に合った点があって、偉いとか偉くないという話ではないのだ。ある意味、どの点だって、一人一人が決めた神聖な点なのだと思う。肉を食べる人は、そこで妥協している、それだけの話。野菜しか食べない人は、そこで妥協している、それだけの話。

最近、ベジタリアンやなんだという言葉をよく耳にする様になったのは、どこに自分の妥協点を持ってくるか再考しようする人、もっと自分の食生活に真剣に向き合ってみようとする人が増えたというサインだと思う。今まで、肉も乳製品も全部食べる人で不自然なほどに集中していたところから、自然な多様性が生まれたのだと思う。それは健全で良い社会の流れなのではないかと思う。


言いたいこと2

肉を食べないなんておかしい、馬鹿馬鹿しい、そんなのやめさせたい

とか

肉を食べる人はおかしい、間違ってる

とか。

この2つは、対照的ではあるが、どちらも同じレベルの未熟さを秘めている。どこが未熟かと言うと、それらが相手の個人の尊厳を無視している点だ。自分の考えが絶対で、それに合わない人は、否定する。それは、全ての意見はものの見方に過ぎず、絶対的な物にはなり得ないということを忘れている、非常に傲慢な性質を持っていると思う(これも私の意見であり絶対的なものにはなり得ないけどね)

もちろん、世界中の人にベジタリアンになって欲しいと願おうと、それもその人の自由で、そのための運動をするのもまた、その人の自由だ。私は、食は多様性だと思うのでその考えには賛同できない。しかし、その様な意見もまた、多様性という美しい図形を作っているかけがえのないピースの一つであり、そういう人がいることは、至極自然なことだと思う。自分がどう考えようとその人の自由だし、他人に意見したければすれば良いのだ。もっと身近なところで言えば、本気でベジタリアンの友達の栄養状態が心配なら、「もうそんなのやめなよ」と言えばいい。動物がかわいそうで、一匹でも殺す数を減らしたくて、周りの人に菜食主義者になって欲しいなら「菜食主義になろうよ」と言えばいいと思う。

ここで最も大切なのは、

相手にそれらを拒否する権利を与えているかどうかだ。

自分の意見を相手に強制していないかどうかだ。

相手の基本的人権、個人の尊厳を守れているかどうかだ。


もしこれらが守れているのなら、何を言おうと何を目指そうと問題はないと思う。もしこの条件が守れていた上で、相手が本当は断りたかったけど断れなかった場合、それは断れない方に問題があると思う。

相手に何も強制することはできない。相手を操作しようとするから、多様性が許されなくなり「不要な争い」が生まれるのだ。また、多様性が許されなくなることは、自分も多様性の一つなので、結果的に自分の首を絞めることにも繋がる。少なくとも私はそう思う。

どんな意見だって、考えだって、あっていい。自分と対照的な意見は、無理に賛同する必要ない。ただ、それはそれとして、そう考える人もいるのだと、放っておけばよいのだ。又、議論する時は、相手の意見も自分の意見もどちらかが絶対的な訳では無いという意識を持ち、相手を自分の思い通りに操作しようとするべきではない。これが守られれば、建設的で、お互いに不快にならないどころか、刺激となる議論ができるだろう。こんな世界は、きっと多様な意見が息づく、美しい世界だと私は思う。そしてそんな世界線に私は移行したい💫💫🌈☀️


番外編な話

これを書き終わってふと思ったこと。人は命奪わずして生きていけないって最初に書いたけど、これって罪なのかなぁ?いや、そもそも罪って何?罪の定義によるよな。もし罪なら、人は生きている限り、生きたことがある限り、何かに罪悪感とか謝罪の気持ちとか持たないといけないのかな?それとも、何らかの形で奪う前や奪った後に、動物や植物に許してもらえたりするのかな?

もうどうしようもないことだから、食べる度、それが植物であれ、動物であれ、感謝するしかない、、その1つの手段が「いただきます」とか「ごちそうさま」なのだろう、、そんなありがちな答えしか(大切なことだけどネ)今の私には導けないな。



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