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君は何を背負うか

 10階建てのアパートはかつてたくさんの子育て世代で満室が当たり前だったものの、少子高齢化と賃貸物件の乱立でその姿はすぐに寂れた。

 すると前触れなく管理会社は空室を埋めるために「精神科シェアハウス」の業者に数フロア貸し出し始めた。
 事前に知らされずどういった形態の事業者なのかも分からないまま。
 そうしてアパート内ではそのフロアに限らず奇行としか言いようのない不思議な事をする人で溢れた。


 ベランダから降ってくるトイレットペーパーの命綱。
 他人の玄関の前で謝罪の言葉を叫び続ける贖罪者。
 エレベーターの箱の中で全ての記憶を失い呆然とする諦観者。(尿失禁付)
 何故か救急車が日に何度もやってきて、誰も搬送せず帰ってくことも日常茶飯事。

 手助けなく生活するのが難しい人々がスタッフの介助なしに、ただの集合住宅にすぎない古ぼけたアパートに集められたのだ。
 もちろん住民は混乱した。

 しっかりした施設なら彼らの素性が分かるし悪意害意なく互いの安全が保証されてる分、こちらも無駄に怯えず偏見せずに済む。
 しかしどうにもシェアハウスのスタッフからして無愛想で彼らの行動を咎めないので、こちら側からすれば悪意ある怪しい隣人がたくさん一気に現れたのだ。冗談じゃない。

 リンは後ろから「お母さん、お母さん」と付き纏う謎の女性を無視してアパート階下の原付バイクまで妙な罪悪感を背に早歩きで逃げた。
 そして原付バイクにまたがる謎の男性に怒鳴った。

「私のバイクです!どいてください!」

 生暖かいシートに涙目になりながら、専門学校で初めての長期実習の介護施設へ向かった。
リン、19歳になりました。

滅多に更新しない「アパート」の主人公ちゃんだよ!
https://note.com/aine0627/m/mb5d025e83d7e

 大規模な霊園はそれだけで一つの村レベルの広さで、早朝の誰もいないお墓の中を縫うように走る。そんなところに実習先はあった。
 一年生初めての実習は介護手技の見学とコミュニケーション、あとは利用者情報の拾い方であった。

 認知症を患った人はチャキチャキ歩く人もいれば車椅子で全く動けずぐったりしている人もいる。
広間に集まった利用者達は行動言動がちぐはぐで、正直に言えばアパートの異邦人と変わりない。

 それでも異質に見えないのはひとえにこの場にそぐわしい人々だからである。
TPOオールオッケーと思った。
 そういう目的のそういう場所にそういう時間だからここに存在する。何一つ異質さを感じない。
 なんならカルテや職員からのアドバイスにより辻褄を合わせたやりとりができる。穏便に事が済む。

 ふと背後から肩を叩かれた。上品なワンピースに中学校の指定ジャージを羽織った婦人が声をかける。
「そろそろ帰りましょうね、もう夕方だからね」
朝である。そしてここに数年住まう彼女の迎えは当然来ない。
「そうですか…。そろそろおやつが出るそうだからそちらをいただいてからお帰りになったら?」

リンの悪い笑顔に彼女もウフッと笑い「そうしようかしら」と言い近くの席に座る。


 この傷付けずに場をやり過ごす方法は先輩職員直伝だ。

 この技はあのアパートでは使えない。
 素性も知らなければどういった疾患があるかも分からないアパートの彼らに、どういった関わり方をしたらいいのか誰も分からないのだ。



 あのアパートの異邦人は可哀想だ。突然見知らぬボロ家屋に男女関係なくぎゅうぎゅうに暮らしている。スタッフが常在しているのかも分からない。ご飯とかどうしてるのかな?
3DKの我が一室は5人家族でもやりづらさがあるのに。あんな狭い部屋で何人で生活してるのだろう。

 その上、誰にも何も分かってもらえない。
 周りの住人に嫌われてることはわかる。(多分)
彼らの家族は今の偏見に晒されている状況を知らないんじゃないかな。


温かい食事、健康管理、お風呂も清潔なお布団もあり、誰もが笑って失敗を受け入れ肯定してくれる。

介護施設を「姥捨山」と揶揄する人もいるが、ここにいる方が幸せな気がした。



 夕方になると認知症の患者さんはソワソワし始める。逢魔時は脳の病理にも影響を与えるようだ。
「せん妄」という、幻覚幻聴や不安行動が増える時間帯の一つが夕方なのだ。

 この日の実習終わりでは、その様子を観察させてもらった。

 立てないはずのお爺さんが何度もベッドから降りて転びそうになるのを、他の業務をこなしながら職員が制止する。それをただひたすら見守った。

 制止のたびにお爺さんが見せる顔もさまざまだった。
 怒って職員に掴み掛かろうとしたり、すぐに受け入れて自ら寝直したり。唐突に昔話を始めたりもした。

 なんとなく要領が分かった。
 ベッドサイドにリンも腰掛けて、さりげなく行動を邪魔しながら話し相手になった。
 学生が物珍しいのか、お爺さんは上機嫌で話し始めたので立ち上がる心配はなかった。

 そのうち職員が「ありがとう。もう記録して上がる時間だからね」と教えてくれたのでお爺さんにお礼を言って帰ることを伝えた。
 すると夕方の魔力も薄らいできたお爺さんは、ややしっかりした眼差しで私の背中を撫ぜてくれた。

「僕もよく子どもをおんぶしてあげたもんだ。でもすぐ疲れちゃってね。下ろすのが早すぎると子どもにも奥さんにも怒られたよ。「今度は誰がおんぶするの?!もう少し面倒見て!」ってね」

本日最後の迷言は微笑ましかった。意味は分からない。


 早朝の墓地も怖いが夕暮れの墓地も怖い。
 そして我がアパートはその居室以外、怖い。

 墓地を抜けるまでややスピード違反で原付を走らせる。大通りは渋滞でねずみ取りがいるから車の後ろに並んでゆっくり進む。
 駐車場に着いてからまた改めて緊張の瞬間だ。

 相変わらずリンは部屋以外のアパートのあちこちが怖い。子供の頃からそれは変わらない。
 キィキィ泣くエレベーター。誰かの足音の絶えない廊下。視線を感じる非常階段。
 怖くて怖くて。幼いリンは走って玄関に向かったのだ。

 そして恐怖はもう一つ。生きている人間が今は怖い。

 実習先での憐憫の情も忘れ、リンは瞬時に状況把握しながら如何に彼らを躱す事ができるか考えながら早足で部屋を目指す。

 エレベーターに誰かの後ろ姿が飲み込まれるのが見えたので、非常階段を選んだ。

 ライトが切れて唯一暗い凛の部屋の階の踊り場。そこに誰かいる。


 肌寒い、日の落ちた暗がりに、タンクトップの男が手を叩きながら何かを歌っている。
自分の歌に合わせて手拍子を叩いているのだ。

 この人は少し見慣れてきた。目の前を通っても危害を加える人ではないはず。。
 一度足が止まったものの、引き返すのも気が引けてそのまま通過する事にした。

 とはいえ目を合わせて挨拶する自信はない。
 顔を伏せて歌声の大きさで距離を測りながら普通を装って歩く。
メロディも言葉もなんとなく聞き取りづらくて何を歌ってるのか分かりそうで分からない。謎の調子。

「……こんばんは。」
顔を下げたままさらに会釈をして全く見向きもせず目の前を通った。ふと初めて歌の内容が耳に入った。



「おんぶが上手〜。おんぶが上手でえらいね〜。」


逢魔時もすでにすぎた。夜の7時。
久々に階段から玄関までドタバタ走って父親に叱られた。

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