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私の生い立ち

17歳で長女を出産してから31年。現在夫と三人の娘と楽しく幸せに暮らし、
不動産会社を含め3社経営している通称「バリキャリママ」として活躍。そんな私の人生を綴ってみました。

【経歴】
 18歳 不動産会社でアルバイトをはじめる
 19歳 不動産賃貸営業開始
 23歳~ 不動産法人営業を開始
     賃貸・売買・金融不動産などを学ぶ
 24歳 次女出産
 27歳~ 大手上場会社にヘッドハンティングを受ける
     全社1位を取り 部署長に就任
 39歳 三女出産
 40歳 独立を決意
 現在 ㈱東京不動産(不動産会社)
    ㈱アイルティ(旅行インバウンド会社)
    ㈱AIMY(SNS動画広告会社) 3社を経営


私は、いわゆる田舎の「名家」に生まれ、三人兄弟の長女で下に3歳離れた妹と11歳離れた弟がいる。

反抗期

裕福に育ったほうだが、それはそれでとても辛く大変な人生だった。
小さいころから跡取りを・・・と祖父が考えていたのか、とても厳しく、友達とも自由に遊ぶこともできず、毎日、習い事に追われていた。
世の中にあるたいていの習い事はしたのではないだろうか・・・・
そんななか、11歳の時に弟が突如生まれた。
弟は、かわいい反面、生まれた弟に世の中のすべてを持っていかれたようで、そこから私の反抗期が始まった記憶がある。
親の言うことは絶対だと思って育てられたが、そのころから私のすべての考え方が変わってしまった。手に負えなくなった私を父と母は、都会の私立の女子高に入れた。
田舎から都会の学校に突然移され、JKをするのは、本当に大変だった。
ただ、都会のJKは私には衝撃過ぎて、楽しかった。
そんななか、私は恋に落ちた。

決断


今のようにネットも携帯電話もない時代に、厳しい家では恋愛もできなかった。
私は、彼と会うために嘘をつきごまかしてたが、親との関係はどんどん悪くなる一方だった。。。
そして最後の決断が、家を出る だった。
当時16歳の決断は、思い立った決断ではなく 綿密な計画を立てた大きな決断だった。
そして、その後私は17歳で母となった・・・・・

新しい人生のはじまり

17歳 私はまだ高校3年生 母親になる自覚もなかったが、選択はなかった。とにかく生きていくためにどうしたらよいか・・・・仕事をしなくては・・・お金を稼いだことも一人暮らしもしたこともなく未成年。
現実は甘くなかった。
私に選択しはなく雇ってくれるところでしか働けなかった。
転々と家を変え仕事を変え・・・見つけたのが不動産会社だった。

不動産と私

18歳の時にはじめて不動産屋にアルバイトで入った。子どもを保育園に預けることができなかったから、夜のチラシつくりのバイト。
昔はネットなどがなかったからチラシを作って、電柱やガードレールなどに貼るのが主流だったので、私の仕事は間取りと家賃が書いたチラシを工作のように切って貼って作りそれを印刷機で刷る→冊子にしてビニール袋に入れる→明け方子どもを負ぶって貼りに行く。
ここまでが私の仕事だった。
でも、なぜか毎日が辛くなかった。
小さなころからレゴブロックでよく家を作ったり、家のポストに入ってるチラシとかを見るのが好きだったからか、このチラシ作りがなぜか楽しかったのだ。

気が付けば営業マン

何年か経って私は営業に出た。
チラシを作ってたこともあり、地域の賃料相場は頭のなかにあったし、お客さんからの反響がどんな物件だったのかもわかっていたので、営業にでるとすぐに結果が出だした。
昔の賃貸の営業マンは固定給などはなくフルコミッション制が多く、できる営業マンはどんどん稼げる時代だった。
とうぜん私もかなり稼ぐ営業マンになっていった。

大手からのヘッドハンティング

賃貸店舗の営業マンをしてたが、土日に働くことが難しくなり営業店から法人部への移動を希望した。
不動産会社での店舗営業と法人営業は、待つ営業と仕掛ける営業という違いである。
店舗営業は、待っていてもお客さんはローテンションでしか当たれないので、売上も運が必要だった。
法人営業に行って、給料はフルコミッションから固定給になったため、年収も下がったが、それでも子どもと仕事の両立をするために私はこれを選択するしかなかった。
しかし、ここでも私は楽しかった。
営業に行けば仕事が取れる。仕事が取れたら売上が上がる。
ここで私はまた、新しい自分の発見ができたのだ。
自分で取ってきた仕事を自分で捌き、売上に直結する。
これが楽しかった。
繁忙期は、子どもを会社の事務所で寝かして夜仕事をすることもあったが、売上が爆上がりし、今度は自分の名前が売れるようになっていった。
そしてついに大手上場会社から法人営業マンとしての声がかかったのだ。

大手上場会社へ入社

自分の人生から考えて、こんな就職ができる日が来るとは思ってなかった。
街の小さな不動産会社から福利厚生が整ってる会社で働くことになり、最初はわからないことだらけだったが、今までやってきたことには自信があったので、ここでも私の新たな挑戦になった。
当時を思い出すと、入社して結果を出さないと認めてもらえないというプレッシャーからいつしか子どもとの時間を忘れて働く日も増えていった。
今思えば、プレッシャーから始まったが、会社からの評価を求めて働くようになり、どんどん仕事が楽しくなっていったのだ。
そしていつしか、子どもとの大切な時間を顧みず、自分のことしか考えないようになってしまっていたのだ。

独立をする

大手でのポジションも上がり、いつしか部下を持っていた。
責任ある仕事も多く、子どもたちとの関係も悪くなっていった。
これについては、また別の機会に話をしようと思う。
そして40歳を前に再婚を考えた。
キャリアウーマンあるある・・・・とよく言われることではあるが、
仕事ばかりして40歳を目前に結婚しなくちゃ!と思ってしまうそうだ。
そして、婚活をはじめて1年 今の旦那さんと出会い私は3ケ月でプロポーズをしたのだ。
初婚の旦那さんの夢は子どもを持つこと。
私は、次の子育ては余裕を持って育てたいと思い、独立を考えた。
昔から、いつか独立したいとは思っていたが、これが今だと思い、誰にも相談をせずに会社を辞めたのだ。

新会社設立

一番初めに作った会社は、インバウンド事業会社だった。
不動産×インバウンド 私はこれに人生をかけてみようと思い、いろんな人に会いに行き、外国にも何度も行った。
当たり前だが、当時インバウンドなんて言葉もまだ世の中でも出てないときだったので、教えてくれる人はほとんどいなかったが、なぜか私は、中国に魅了されたのだ。
井の中の蛙大海を知らず・・・・・
まさにこの言葉の通りだった。海外にいくと日本がどれだけ遅れているのか、世の中には不動産以外にもこんなビジネスがあるんだ・・・・とたくさんの発見があった。
不動産しか知らない私には、毎日が楽しくてしかたがなかった。
そしてついに、大波がやってきた・・・・・
インバウンドバブル。
私は、絶対にこの波に乗りきってみせると誓い。また新たなチャレンジが始まったのだ。










ここからが私の不動産人生が始まったのだ。

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