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あいまいと余白

『あいまいの知』
河合隼雄、中沢新一編

「あいまい」の知/岩波書店

http://iwanami.co.jp/moreinfo/0220140/top.html

このシンポジウムは1999年に開催され、人文科学、自然科学、パブリックアートなどの研究者が「あいまい(ambiguity)」について発表をしている。

キリスト教社会は、魔女狩りをしてきた長い歴史を基に、近代科学を発展させ、森羅万象を何かの型に当てはめようと、つまり言語化しようとしてきた。
数学は公式などの前提がないと答えが導き出せない。
ではその前提がどこから来たかというと、誰もよくはわからないように、つきつめれば「あいまい」である。
学術論文、面接、診断など、答えを言葉で表そうとすればするほど、真実や実態とかけ離れてしまう場合が多い。
学会で、データや理論を述べるより、症例を発表し意見を交換したほうがおもしろい。
面接では、志望動機や目的など、正直な気持ちを述べると、優柔不断とみなされ落とされてしまう。
診断で病名をつけるのは、医者が楽になるためで、患者がそれで治るわけではない。

「あいまいさ」は、日本人の特徴と思われてきたし、日本人が専売特許のように、免罪符のように用いてきた。だが日本人は、あいまいさを当たり前にしてしまい、そのほんとうの力を自覚していない。

答えや結論を求めるのは、怖いから、しんどいから、イライラするから。
あいまいさとつきあい、話を聞き、はぐらかし、はぐらかされ、成り行きを見て、流れに身を任せるのは、忍耐と集中とエネルギーが必要。
それでも、言語化せずはっきりとさせず、状況を見守ると、問題とされていることがなくなることが多々ある。

絵画や音楽など、美しいと感じるものは、はっきりしないところ、余白、空白、間に神が宿る。
2015.Ameba blog

「あいまいさ」の力
 商談をするとき、いきなり本題に入らず、世間話をしたほうが、契約が成立しやすいという説があります。
 論理を述べず、「状況」を詳細に述べていると、相手のことを言っていても、自分のことを言っているように聞こえてきて、自他の境があいまいになる。そこに親密感のある「空気」が生まれてくるのかもしれません。
空間的に話者同士で認識しあっている感覚の方が、言葉よりもはっきりしていると、「空気を読めない」という感覚が生まれるのではないでしょうか。
 
 確固たるその「空気」を感じ取っていても、それを言葉にすると嘘っぽく聞こえたり、文章にまとまらないことがあります。あえて、言葉にしないほうが「明確な意味」を持って理解しあえたり、はっきりとしたメッセージを伝えることは、芸術の中の「余白」として太古から人は表現し続けています。

言わぬが花
阿吽の呼吸
以心伝心
目は口ほどにものを言う
などことわざにもあるように、日本では、言葉にしないこと、はっきりとさせないことをよしとしてきたのはなぜでしょう?

言わぬが花に相当する、英語とフランス語のことわざがあります。
“It is not always wise to speak the truth.”〈真実を話すことが賢明とは限らない〉
«Toute vérité n’est pas bonne à dire.»〈すべての真実が話されてよいものではない〉どちらも意味は似ていますが、黙っている事が賢明がいうこととあけすけに言ってしまうより、「言わぬが花」には、黙っていることが粋で美しく奥ゆかしい、というニュアンスも含んでいるように感じます。

先日、天外伺朗さんのお話を聞く機会がありました。
工学博士で、元ソニーの上席常務としてAIBOの開発に携われた方です。
講演では、分析し答えを導き出すことを、「分別知」と呼ばれていました。「分別知」は知っているという感覚であり、愚かさ浅はかさにつながっているといいます。
知恵(ちえ)=分別知(ふんべつち)=凡夫の知恵
智慧(ちえ)=無分別智(むふんべつち)=仏(菩薩)の智慧
無分別智は、すべてを超えたところにあり、仏の教えであるとのこと。
それはまさにあいまいさであり、最先端の量子力学や化学では、この世界が「あいまい」そのものであることを証明しつつあります。

わからないという「余白」に美しさを感じるのは、そこにこそ真実があるからかもしれません。
2015awalanguage Ameba blog.

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