糸、布、服と資本主義
私は資本主義に支配されてる。グローバル化にも絡め取られている。その証拠に、いま私は大阪駅直結のショッピングモール、ルクアの中のスタバでこの文章を書いている。
資本主義もグローバル化も、その恩恵を十二分に享受しながら同時に忌み嫌っている。無邪気に資本主義ばんざーいなんて思えたのは、たぶん「狂乱の20年代」のヨーロッパ人かバブル期の日本人くらいだろう。
食べ物について、既製品がなんだか好きになれず避けまくっている私は、わりと凝った手料理でもつくる。もちろん、カレーを作るのにカレー粉から作るほどの知恵も根性も持ち合わせてはいないが。それでも最近で言えば、松前漬をつくり(昆布とスルメとにんじんは買った。漁師さん、農家さんありがとう)シュトーレンも作った(洋酒は買ったものだし、レーズンやくるみや強力粉ももちろん買ったけど)
最近、といってもここ2ヶ月くらいかな。心をとらえて思い続けてることがある。
服をつくりたい。
いま、この文章を大阪駅直結のショッピングモールルクアで書いてる私はますますその思いを強めた。
もう十分服は持ってるのに(といっても同年代の女性よりは少ないと思う、たぶんだけど)ふわふわのニットの色違いがほしくて、勇んで家を出たのだ。
で、後悔した。
人、人、人
既製品、既製品、既製品
まぁ、1月2日なのだから当たり前だけど。
てゆーか、ショッピングモールなんだから当たり前なんだけど。
私は服が好きだ。ファッショ通ではないし、おしゃれ上級者とはとてもいえないけど、布製品が好きなんだと思う。
それが本当におしゃれかは別として、たったひとりこの私がその日一番だと思える格好をして、丁寧にお化粧をして、背伸びして買ったダイヤ一粒のネックレスを首にかけ、ピアスをつけて口紅をひけば、どんなに元気のない日でも、心が少しだけあがる。さぁこのかわいい私でお出かけしよう、と思える。鬱の私でさえも。
行司千絵さんの『服のはなし 着たり、縫ったり、考えたり』という本に面白いことが書いてあった。
冬のツンドラ(なんと、行ったことある!)を旅するには、マッチ、ナイフ、釣り道具、そして裁縫道具があればいいそうだ。トナカイの毛皮をはおるだけでは冷気が入り込むけれど、縫製することで保温ができるということだ。さらに同書にはこうある。アウシュビッツ強制収容所から生還したイタリア人作家プリーモ・レーヴィも、収容所内の病室に移されたときにひそかに持ち込んだのが針と縫い糸3本、ボタン5つなどなど。
針と糸の発明は、私たちが考えたこともないくらい偉大なことだったという話を読んで、結構な衝撃だった。手作りのもの、オーガニックなもの、フェアトレードなもの、生産者がわかるもの…こう行ったものは、大量生産が地球を覆いつくした時期とちょうど同じ頃流行るようになってきた。でも、料理に比べて服を手作りする人はまだ少ない。なんなら手作りの服なんて、どこか知らないおばあちゃんがつくった、なぜか色がダサいもの、とさえ思っていた。
それなのに、私は最近、服の手作りがちょっとずつ気になってる。自分がおしゃれだと思うものは自分の手で作れないかしら。私のサイズにあった、私の好きな色の、私の好きな生地感のもので。そんなことができたら、どんなにすてきなことだろう。
でも思う。ユザワヤに行ってみて布を見て、ああこの生地だって大量生産されたものだよなぁ。
それで私の頭はもっと深みにはまってく。生地ってなんだろう。糸とか毛糸ってなんだろう。どうやって、何から、あんなに長い一本の糸を紡ぎ出したの?どうやって色をつけたの?それをどうやって布状にしたの??そんなこと、つい最近までほとんど考えたこともなかった。
今日の初売りセールで服を買ってる人の中に、こんなこと考えた人ははどれくらいいるんだろう。
産業革命前にタイムスリップしてみたいわ。
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