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(居住歴6年)私の「インド人考」

こんにちは。
ライフストーリー インタビュアー/心理カウンセラーの 真中愛です。


私は2008年~2014年までの6年間、インド・デリー郊外に家族3人で暮らしていました。
シリーズ記事「インドと私」としていくつか(というか、まだちょっぴり)書いています。


帰国翌年、とあるインド進出ビジネスサイト(現在は閉鎖)から、
「インド駐在員とその家族を対象に、生活面での現地理解に役立つようなコラムを寄稿してほしい」
との依頼がありました。

そもそもウチはバックパッカー上がりの夫婦が好き好んでインドに住み始めていて、厳密には駐在員ではなかったのですが。
さらに当時私のコミュ障っぷりがまだ色濃かったこともあり、6年間を通して現地日本人コミュニティとはほぼ無縁、ミドルクラスのインド人たちの日常にどっぷり浸かった生活を送っておりました。

が、そのことが逆に「どうしたらインドで生活するうえでの心理的負担を減らせるのか?」というメンタル面でのアドバイスをビジネスサイトから乞われる立場になったのです(ええ、会社および個人によっては駐在先がインドというのは完全に「ハズレ」なわけです)。
短所は長所というか、需要と供給はどこでも成り立つというか、分からないものです。
ということで、2015年から半年くらいの間に4本のコラムを寄稿しました。


インド生活についてはこれからブログでもぼちぼち書いていこうと思うのですが(哲学のみならず心理学的にも?ネタの宝庫なので)、ひとまずそのコラムを記事にしてみることにしました。サイト閉鎖でお蔵入りになってましたし。

6年くらい前に書いたものの1本目を一部加筆修正しています。
もしご興味あれば読んでいただけると嬉しいです!
なお、ビジネスサイト向けに書いたものなのでちょっぴり文章が硬めです。

■「リーラ」 ~ インド劇場に迷い込む■
《「人生は劇場」を地で行くインド。予測不能の悲喜劇が日々ダイナミックに展開する舞台に立つための心得とは》

【Vol.1 未知の舞台の先人】

古代インドで使われていたサンスクリット語に「リーラ」という言葉がある。
大雑把には「(この世は)神の遊戯の場である劇場」というような意味だ。
同じようなニュアンスの思想はおそらく洋の東西問わず、ベースとなる宗教を異にして世界に広く認められるのだろう。
しかし、インドはこの「リーラ」思想が現代の人々の意識下にも未だ色濃く浸透し、なおかつかなりの独自路線で日常生活のレベルにまで表層化している、世界でもあまり類を見ない国と言えるかもしれない。

そのリーラの地に私が初めて降り立ったのは2002年。
当時バックパッカーとして東南アジアを放浪中で、日本を出てから半年以上が経過した2002年5月、旅路を西へとバンコクから空路デリーに飛んだ。
すでに旅は日常となり、ぬるま湯にたゆたうような日々を過ごしていたタイでの生活。そこから一転、空港を出ると同時に熱と埃と独特の臭気にまみれた空気を頬に受け、路上に佇む大勢のインド人の眼光鋭い眼差しを目にした時・・・これはいよいよ今までとは次元の異なる世界に来たな、と、久々の緊張と興奮が全身を走った。

その異次元で暮らすインドの人々は当初、まさにエイリアンそのものだった。
平然と嘘を言う、所構わずゴミを捨てる、あけすけで無遠慮な質問攻め、異様に近いパーソナルスペース、山より高いプライドと自己顕示力、怒涛の言い訳、未知の衛生観念、寺院(土足厳禁)でお参りした後にサンダルを盗む・・・(被害実体験)。
数々の苦い思いをしながらも、強烈な個性を放つその世界はどうにも抗い難いパワーの引力を有していた。私は夢中になってインドを旅した。この混沌は何だろう、もしや一見無秩序ながら、実は我々日本人(つまり凡人)には計り知れない視点から見れば整然と秩序が保たれているのか?

そんな深読みと、至るところでさまざまな形で目にするヒンドゥ教の神々の不可解さも相まって、私はひとつの結論を導き出した。インド人とは「リーラ」思想のもと、神の計らいであるこの無秩序をものともしない超越的な人種なのだ。我々凡人には想像もつかない思考回路や神経伝達回路や第六感的エネルギーを持ってして、この混沌を飄々と生きているに違いない、と。
そうなると珍しいもの見たさでいよいよおもしろくなってきて、気の向くままに東へ西へと旅してまわるうち、あっという間にビザの期限を迎えていた。
たっぷり半年間を過ごしさまざまにエキサイティングな体験をしながらも、ただその興奮のるつぼで遊んだだけで、結局はインドやインド人の本質に触れたという実感はほとんど得られないままだった。そうして思い切り後ろ髪を引かれつつインドを後にした。

だからその5年後に思いもよらずインド行きの話を得たとき、あの未解明の世界にまた行けるのだという感慨深い喜びが湧いてきた。今度は夫が現地で仕事をして生活するということと、1歳になったばかりの子どもを連れて行くという状況の違いはあった。しかし不安よりもワクワクが圧倒的に上回っていた。あの規格外のさらに上を行く環境に一時的でも身を置けるということは、自分はもちろん子どもにとってもなにかとんでもなくプラスになるはずだ、という確信まであった。

とはいえ、実際に生活が始まってみるとただおもしろがっているだけで済むはずもなく、心身共になかなかにハードな問題、あり得ない事態に幾度も直面した。根無し草だった前回の旅行者とは違い、水草程度ながらも一処に根を下ろしての生活。日常というものに付随する雑多な煩わしさ、そのすべてが極めて不慣れであり、かつ不便極まりない、という現実と向き合わざるを得なくなった。そのことはインドそのものに対する印象を覆し、生活するうえで常にある種の緊張感と猜疑心を持ち続ける、という大きな変化をもたらした。
そういうまったく新たな姿勢で、日常生活という現実をインドの人々と共有することになった。かつてはただツッコむだけでよかった彼らの不可解さにもにわかに警戒心を抱くようになった。それでもなんとかその本質を掴みたいと、時に助けを求め、時に押しの強さに根負けし、時に真正面から戦ったりしながら距離感を測りつつ、あらゆる立場のインド人とひたすらすったもんだを繰り返した。そうしているうちに、あの、私が当初インド人に対して抱いていた印象とはまるで異なる彼らの姿が徐々に浮かび上がってきた。
それは、インド人は決して超越などしておらず、彼ら自身もまたこの混沌と無秩序に思いっきり振り回されている、という、考えてみたらごく当たり前の事実だった。

現実における、インドの混沌と無秩序。たとえばインドの都市部では近年物価の高騰が止まらず、物件によっては家賃が東京と変わらないことも珍しくない。そういうオフィスビルや高層マンション群を背景に、砂埃と下水とゴミにまみれた未舗装の路地にたくさんの人や動物や露店がひしめき合う、まるで戦後のような景色が混在する。大通りの交差点に信号待ちの車が停まれば、赤ん坊を抱えた雇われの物乞い(元締めがいて組織化されている)が苦しげな表情を浮かべながら窓ガラスに顔を寄せる。彼らに小銭を施し走り去るベンツもここではピカピカに保たれることは不可能で、10分も走れば砂塵まみれ、10日も経てばキズとヘコみだらけになる。
旺盛な出世欲による転職や大家とのありえないトラブルや実家親戚との兼ね合いや、その他政治的理由や占星術師のお告げ等々・・・想像の範疇を超えるあらゆる事情で、驚くほど多くの人がごく短期間でインド中、時には世界中への引っ越しを繰り返す。そして両親が暮らす田舎まで、小さな子供を乗せて悪路を車で何日もかけて帰省する。もしくは高齢の両親が電車やバスの硬いシートに揺られて不慣れな都会にやって来る。
あらゆる生活環境と衛生観念を持った13臆の人々が混在して暮らすインドでは、誰もが伝染病にかかるリスクに日常的にさらされている。発症しても、投薬で症状さえ治まれば日常生活に戻される。ここでは伝染病を根絶させることが不可能なので、完治させる治療という発想がない(私も腸チフスにかかり、退院後に再発。最終的には「誰もしない」という陰性チェックを受けた)。
時代や法律がどんなに変わろうが、カーストや宗教による差別は目に見える形、見えない形で存在し、恐らく今後も存在し続ける。

インドという「劇場」・・・それは日本とはあまりにもかけ離れた、まるで万年暴風域に設置されたような舞台だ。あらゆる方向から次々飛んでくる自分の意志や理解の範疇を超えたものごとにひたすら対峙せざるを得ない、そこには確かに「リーラ」思想がある。すべては神の計らい。しかし、だからと言ってインド人も超然とすべてを受け入れているわけではなく、彼らもまたすったもんだし、大いに葛藤し、時に深く苦悩し、もがいているのだ。

私が初めて来た時にエイリアンだと感じたインド人のさまざまな言動も、そういう舞台設定で悪戦苦闘するなか生まれた価値観、身に着けた処世術なのかもしれない。だとすれば、なにかの縁(それこそ神の計らい)で突如その舞台に立つことになった私たちにとって、ここがホームである彼らは決して得体の知れない恐ろしい存在ではなく、むしろ頼もしい先人なのではないだろうか?

そういう思いに行き当たったとき、彼らに対するある種の敬意と親しみが一気に湧いてきた。慣れ不慣れはあるけれど苦労しているのは同じなんだ、と感じることができたとき、警戒心がぐっとゆるくなった。すると彼らのおせっかいなまでの親切や強引な申し出に対してやんわり断るこなく、気軽に受け入れられるようになった。懐が深く義理人情にも厚いインドの人々は、そうやって頼りにされるとますます張り切って助けてくれる。しかし忘れてはならないのは、喜々として先導しつつも時に適当なことを言って誤魔化しながら、彼ら自身もまた暴風に翻弄されているということだ。

暮らすとなるとどうしても関わりを持たざるを得ない、舞台の先人。彼らが何にどう対処し、あるいはやり過ごし、どんな習慣や思考回路や方法で混沌の現実と向き合っているのか。飛び入り出演である我々にとって、いかに心強く、ときに厄介な隣人であるのか。
その輪郭が浮かんでくるようなエピソードや独特の価値観を生んでいるバックグラウンドの片鱗を、私が体験してきたことからお伝えすることができればと思う。

ご近所に住んでいた野ブタちゃん一家


■真中 愛【ライフストーリー インタビュー/カウンセリング】

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