納豆卵かけご飯と納豆オムレツ

私の朝ご飯は4パック99円のおかめ納豆とみそ汁が基本で、家には常時納豆が冷蔵庫に入っている。

私には昔からどうしても一つ許せないことがある。

それは、「納豆卵かけご飯」だ。

本来、納豆ご飯・卵かけご飯は各々が独立した立派な一品で、2食分補えるものであるのに対し、納豆卵かけご飯は米量はそのままで1食分にしてしまうという暴挙である。
私が貧乏性なのもあるが、非常にブルジョワジーであり、主観になるが、納豆と卵で相乗効果が出ているようにも思えない。
卵かけご飯のサラサラを食べたいのであって、そこにネバネバは求めていない。納豆ご飯のネバネバを食べたいのであって、そこにサラサラは求めていない。なんでこんな食べ方をするんだ、各々に対して失礼じゃないかとさえ思っていた。

妻と今朝の朝食でこんな話になった。
妻:「卵の賞味期限切れちゃうから納豆オムレツつくろっか~」
私:「おぉ、いいよ~」
私:「・・・?」

ここに大きな矛盾が生まれた。

私は生まれてこの方、納豆卵かけご飯はブルジョワ的で人間の底のない欲望の塊、拝金思想への第一歩、一度上がった生活水準は下がらないものの象徴として嫌悪すべき価値観と置いてきた。

納豆オムレツは今まで食べたこともあるし作ったこともある。今までの私はこの恐ろしいまでの自己矛盾に気づかなかった。
「あれ?、でも、これって、食べていいの?」 
「納豆卵かけご飯と材料は一緒で、塩小さじふりかけちゃったり、なんならバターで炒めちゃったりなんかして、いいのこれ?」
「かなり、ブルジョワジーなんじゃない?欲望に任せすぎじゃない?もう戻れないよ、、、」

ここで心の声をを妻にぶつけると、朝ご飯が無くなるので大人しく食べました。
めっちゃうまかった。。。
相乗効果増し増しじゃん。。。

普通にご飯おかわりした。

大きな思想で嫌悪してきたつもりだった、納豆玉かけご飯が、ネバネバとサラサラが共存している状況に対して、私的なただの好き嫌いだけだったことに気が付きました。

納豆卵かけご飯が好きな人は、これからも楽しくおいしく食べてください。
私の納豆卵かけご飯への思いは、ただの好き嫌いであなたの価値観を否定したり嫌悪したりはしません。

ただの好き嫌いに思想ふりかけちゃって、言語化で熱持たせちゃって自己正当化するとよくないですね。
アホみたいです。

まだ、家に卵が余っているので、今日の夜は納豆炒飯にしようと思います。

好き嫌いは主体からの視点であるため誰しも存在する。
その判断材料に大きな思想を用い、妥当性・普遍性を持たせると反対を生む。
善悪・正否というのは客体からの視点であるため存在しない。

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