見出し画像

4月5日「抽象画」

職場までの道のりには、もはや夏の雰囲気があった。雪は残っているけれど、照りつける日差しの強さが、春をうっかり忘れてしまったみたいに容赦なく僕まで届いた。
春物の羽織にしてよかった。何年も前にGUで買った安物だった。もうそろそろ買い換えたいけれど、致命的に壊れたり、未だにボロくなっていないせいで、なかなか手が伸びなかった。

仕事を終えてご飯を済ませ、夏目漱石の『明暗』を読み始めた。漱石の未完の絶筆。新聞で連載している途中で病に伏してしまったらしい。
漱石は『こころ』と『夢十夜』くらいしか読んでいないが、段飛ばしで手に取った。

絶筆の作品には不思議な魅力がある。太宰治の『グッドバイ』や伊藤計劃の『屍者の帝国』くらいしか読んだことはないが、終わりが来ないこと、作者の死が染み付いていること、そういったさみしさが付随していることが魅力に思えた。
勝手に悲劇を足して悦に浸っているだけかもしれなかった。
(屍者の帝国は、のちに盟友の円城塔が続きを書いて無事に物語を終えた。死んでいる本を生き返らせるのはゾンビみたいだなと思った。でも、終わることは何よりだった。)

 彼の知識は豊富な代わりに雑駁であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れることができなかった。それは彼の位地が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の無精者に生まれついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。
夏目漱石/明暗/P58-59

遠からず自分のことを書いているのかと思った。
縦横無尽にコンテンツに首を突っ込んではその上澄みを舐め、人から聞いた話で使わない知識を溜め込み、別段人生の為には利用せず、ただ楽しむため、人と盛り上がるため、文を紡ぐために使っていた。まあ、いいと思った。そのスタンスのまま、いつか仕事や、人生に応用がきけばいい、と思った。

夏目漱石の文章は質量があるのにスムーズだった。一連の流れが子細に、むしろ細かすぎるくらいに書かれているけれど、それが必要最低限だと思わせる力があった。
不思議だった。普通ならくどくなってもおかしくない。やはり文豪はすごい、としか言いようがなかった。
文字を追いかけることに疲れてスマホを開いた。

特に見るものもなかったが、何気なく、昔の自分のリア垢のIDを検索をしてみた。
自分のアカウントは消えていても、貰ったリプライはそのまま残っていた。会話の断片だけが、大海原のちぎれたワカメみたいに、ネットの海に漂っていた。
意味もなく遡っていたら、誰だか覚えていない人と仲良くしていたので、アカウントまで飛んでみることにした。
それは女性で、大学時代の短期アルバイトで知り合った、年下の子だった。名前までは思い出せないけれど、投稿されていた何枚かの顔写真を見て気がついた。

そのアルバイトは、地下歩行空間という全長1.5キロほどの地下通路の途中にある、広めの空間にステージを組み、新進気鋭のアーティストがライブで絵を描くイベントの補佐だった。
ばかでかいジャングルジムのような骨組みを作って、四方に大きめのキャンバスをくくりつけた。周りにはDJブースやペイントされたドラム缶が置かれていた。
音楽にのりながら、制限時間三時間の中で各々の作品を創り、歩行空間の道行く人に投票をしてもらう。得票数の多い人がニューヨークで個展を開く権利を手にできる、という、アートバトルだった。
そういえば、これ以来、歩行空間で音量の大きいイベントが開催されなくなったのは苦情でも入ったからだろうか。当日、近くのたこ焼き屋で働いていた友達が、音が大きすぎてイライラした、と言っていたのが記憶の隅にあった。

イベントを主催した会社は、従業員三人のベンチャー企業で、アルバイトは僕も含めて歳の近い六人だった。僕は友人に誘われて働くことになった。貧乏大学生のアパートに毛が生えたような広さの事務所に詰められて作業をした。おかげで短期間で親交を深めることになった。
トンデモイベントのアルバイトだからか、集まる人は個性的だった。NGOに参画していたり、五種類の楽器が弾けたり、家具をなんでも作れたりする人などがいた。

Twitterの中で再会した女の子は、卒業したらアメリカと台湾に行って、しばらくしたら東京で仕事をする、と言っていた気がする。
そういえば、Facebookでそんなような写真を見た、ような覚えがある、気がした。曖昧だった。海外で大蛇を首に巻いてピースしている写真が目に焼き付いているが、あれはどこの国だったろう。

固定されたツイートを見てみると、札幌に帰ってカフェを始めるとあった。ヘェ、と詳細のリプライを読んでいったら、もう既に行ったことのある、最近オープンしたカフェだった。
元を辿れば、同僚からおすすめされたお店だった。営む夫婦が素敵だという噂と、水煙草が美味しいという話を聞いた店だった。今年の一月に訪れて、雰囲気もコーヒーも水煙草も良いものだと思っていた。

接客をしてくれたのは男性で、気さくな方だった。空間にあった人柄というか、その人柄が空気感を作っているのかも知れなかった。卵と鶏のどちらが先でもかまわないが、なんにせよ、ぴたりとはまるキャラクターだった。
お会計をしてくれたのは女性だった。記憶を辿ってみると、背丈や声色、目元の具合、確かにあの店員さんはこの子だった。知らず知らずに再会を果たしていた。
また今度行ったときには話しかけることにしようと思った、けれど、少し迷った。僕を覚えているだろうか。名前はなんだったろうか。

なんだか疲れてしまってTwitterを閉じた。
天井と壁の繋ぎめの、直角の部分を見つめながら、人間関係の奇妙さを思った。伏線回収みたいだ。いや、アートだ。
無意味に思えるそこここが、実は一つのテーマに基づいて描かれている、といった具合の抽象画みたいだ。そんなことを思ったけれど、彼女との出会いがアートのイベントだからそうなら面白いよなと、自分に言い聞かせているだけだろう。

人生は抽象画か?
そうでないとしたら何に例えられるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?