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4月20日「幽体離脱」

ゆっくりと目覚めたせいで時間がなかった。カーテンを開けた向こうはあまり気持ちのいい天気ではなく、鈍色の雲が向こうまで広がっていた。
茶けた山々には緑が差し始めているけれど、さらに奥にある、より高い山のてっぺんには、まだ冬の名残が白く残っていた。季節が動いているのがよく分かった。花粉症の時期であるから、幾ばくかの憂鬱が心を支配した。その反面、暖かくなっていくこれからの日々には嬉しさを感じる。

さっさと準備をしなければならない時に限って、普段から目にしているはずの景色が変化している様を見つめてしまうのは何故だろう。
焦らない焦らない、一休み一休み、と僕の中の一休さんが訴えているのかも知れない。あるいはただの現実逃避か。
何にせよ、急いで身支度を済ませなければ仕事に遅れてしまう。

カラスの巣のように絡まった寝癖と寝苦しさを可視化する寝汗をどうにかするためにシャワーに入る。ざっと済ませて仕事着に着替える。
まったりと起きたせいなのか、頭がぼんやりとしていた。
そのぼんやりが夜まで尾を引いてしまって、生活をしたという感覚がまるでなかった。朝の景色を見たあとから感情の動きがほとんどなかったのだろう。
そういうことはロボット的に動いていたとか表現されるけれど、それすらもあやしい。そこらへんに落ちている小石になって、小学生に蹴られて移動するような、自分の価値観から離れたところで他人に動かされている感覚だった。

日記に書くこともない。
朝の景色もとうに書き終えてしまった。感受性を得る器官が全くもって機能停止に陥ったのか。リハビリが必要です。
ということで応急処置的に、最近のメモの中から日記に組み込めなかったものを三つほど拾い上げて、枝葉を軽く付けてやろうと思った。感受性を取り戻すためには日々の振り返りから始めるべき、という言葉は僕が今考えたテキトーな理論だ。
これ以上書いていても余計な言葉だけが連なってしまって、書くことがないのが露見してしまうだけだから、さっさと始めよう。


岩波文庫はいい。
世の中には、岩波文庫を愛してやまない人間がわりと多くて、Quoraというヤフー知恵袋の気取った版みたいな質問サイトで「岩波文庫」と一度検索したならば、私は岩波文庫を全て読破した者です、みたいな変態と博識の間の行き過ぎた人すらいたりする。
哲学や現代文学、評論などを扱っているのだけれど、そのどれもが難しいように感じられて中々手を出すことができないでいた。先日、意を決して「日本の弓術」という本を読んでみたときに、岩波文庫いいじゃんと思った。他の本は軒並み文字のポイント数が上がって紙面の余白が狭まってしまっているため読みにくいと感じていた。岩波文庫はその波に乗らずに、小さめの文字で印刷してくれているのがありがたかった。
その方が僕にとって読みやすいというだけであるし、電子書籍が台頭してきて、文字サイズが自由に選定できる現代において、少し前時代的ではあるけれど、紙ベースで読んでいたい気持ちのある僕にはありがたかった。
まあ、全部読もうとは思わないのだが。


JRに乗りたい気持ちが突然生まれることがあってそれが今です。
僕が主に利用している公共交通機関は地下鉄なので、窓の外の景色を見ても真っ黒い壁か、いいとこ駅のホームをせわしなく行き来する人達くらいのものだった。その点、JRの窓からの景色はとつとつと変わっていくから嬉しい。
それにJRに乗るときには、空港に行くとか近くの港町まで行くとか、観光的な付加価値が付いていたので、パブロフの犬的に、勝手にテンションが上がるのかもしれない。得も言われぬ特別感がある。
新潟に面接を受けに行った時、JRのホームが田んぼと田んぼの隙間にあって、壁はなく、コンクリートのホームが横に伸びていたのが衝撃的だった。
向かいのホームでは高校生達があぐらをかいて座っていたりカップルが手をつないで話していたり、買い物袋を下げたおばあちゃんが線路の向こうを見ていたりした。その背景では目に眩しいほどの緑の稲穂が風に揺れ、絵に描いたような青空に、厚ぼったい真っ白な雲が浮かんでいた。ポカリのCMかよ。これを青春の風景と呼ばずしてなんと呼ぶのだ。
JRは羨望の眼差しを投げるに丁度いい。僕にとって得も言われぬエモい乗り物なのである。


日記を書くのは非常に楽しいことで、人生の記録をとっているようで有意義だし、日々の些細なところまで目が向くようになってきたので、双方向的に良い作用をもたらしてくれている。
日常には書き出さなければわからないことが多すぎて、例えばどうでもよく見えたワンショットを思い出して文字に起こすと、不思議な考えが浮かんできたりする。自分の心の底をほうきで掃いて、砂を払ったら新しい感情が出てきました、みたいな感じがある。
それがゆえに結構な労力を使う。
毎日書き続けてはいるのだけれど、人様にお見せできるような代物では全くなく、自分のために書き記した感が強すぎて、自己満足ここに極まり、という読み心地がする。読めるものにできるように形を整えてやる。
そうして文字数が増える。これは良くない傾向だろう。日記を一つのものとして締めたがっているのかもしれない。もっとフランクに、肩肘抜いて、テキトーに書けば良いのだけれど、人の目に触れるというハードルは思ったよりも高い。いつか慣れることを思って書くしかないか。


ひとまず、こんなところだった。
思ったよりも興が乗った。そもそも僕は、今は日記という体裁で書いているから文章の中の目線がばらけてしまいがちなのだけれど、元はエッセイを書くのが好きだった。一つのことをうだうだと考えて文を紡いでいくのが僕なりのその書き方だった。
日記は一日を思い出しながら書いていくから、別のことに気を持って行かれることが間々ある。メモを書き伸ばしていくのは前者に違いなくて、短いけれども筆が進んで楽しかった。こっちの方が合っているのかもしれない。

まあでも、その二つに明確な違いなんてあるはずがなくて、僕が勝手に線引きをしているに違いなかった。自分の書きたいように書きやすいように書きたいことを書けばいいのだった。
というか、日記の文章は客観視をしているのかもしれない、とまさに今思いながらタイピングしている。なんでだろう。幽体離脱をしているような味気のない日々ではあるまい。よく分からないが、そうなってしまっている、のだった。

感受性がなくなったのは幽体離脱のせいか?
なんでもいいが、明日はもう少し、自分の周りに目を向けられるような心身の余裕があるといい。

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