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【インタビュー】わたしの『キッチン』@ブリスベン

オーストラリア留学をした女性が、現地で暮らす従姉との同居生活で、
自身の結婚生活の喪失を徐々に受け入れていく……、そんなインタビュー記事を書きました!

小説のように、インタビュイーの心の変化を描いたつもりです。

読んで頂けたら、幸いです。

【インタビュー】わたしの『キッチン』@ブリスベン


2021年10月のある日。筆者の30年来の友人女性と、彼女の部屋でのんびりおしゃべりをしていました。
友人は、私の小学生の幼馴染で、30歳の時にオーストラリアに留学をした経験があります。
                     
友人女性「もうすぐ、クリスマスだね。そろそろ従姉のプレゼントを選ばなくちゃ。今年は船便で送るから、早めに用意するんだ」
荒川「従姉って、もしかしてオーストラリアのブリスベンに住む従姉のこと?毎年、クリスマスプレゼントを送ってるの?」
友人女性「そう。留学していた頃、従姉の家に住まわせてくれたから、お礼も込めてずっとプレゼントを送ってるんだ。今年はコロナで、航空便が制限されているから、船便で送ろうと思ってね」
荒川「へー、毎年プレゼントを送ってるなんて知らなかった。従姉の家に住んでたんだね」
荒川「言わなかったっけ?あの頃は、私もいっぱいいっぱいだったし、あいちゃん(私のこと)も、つわりで体調悪かったしね。お互いうまくコミュニケーションできなかったかも」
荒川「留学していた頃は、大変な時期だったものね。従姉と暮らせてよかったね」
友人女性「うん。あのつらい時期に寄り添ってくれる人がいてよかったよ。従姉と暮らしたのは初めてだったけど、ウマも合ってね。ブリスベンでの生活は、今でも特別なものなんだ」
荒川「何だか、吉本ばなな著の『キッチン』みたいだね。『キッチン』は、主人公の女子大生みかげがお婆ちゃんを亡くして心が空っぽになっていた時、突然美青年が現れるんだよね。
それで美青年と元男である美女の母親と同居するの。
三人で生活するうちに、みかげの心がだんだん癒えて、祖母の喪失を受け入れていくお話だった。それに似てるかも」
                      
私は、ここから友人女性の留学生活のインタビュー記事を書こうと思い立ちました。
友人は30歳の頃、夫婦関係が破綻し、体調を崩して入院をします。それから留学を決意し、従姉の家を訪ねて生活を共にしました。
留学の勉強を頑張りながら、ブリスベンの地で、彼女の心が少しずつ解きほぐされていくお話です。
(ここから、友人の仮名を『みかげ』と使っています)
 

再発見した夢


ーみかげが、留学を決意したときって入院中だったよね。
そう。手術が決まって横浜の病院に入院していた頃。
海外駐在の夫は私が病気になっても、一度も帰ってこなくて、連絡すらくれなかったときだね。
夫の浮気相手の外人女性からメールも来て最悪だった。
体調がどんどん悪くなって、とにかく体が苦しくて、私このまま死ぬんじゃないかって思った。死が目の前にあると、悟っちゃって、死が気持ちいいものに思えてくる。
この苦しみが浄化されたら、その先に死があるのかも。それでもいいな、なんて思い始めて自分の人生を振り返ったんだ。
でも、『ちょっと待って。今ここで死んだら私の人生って、大学卒業して、ちょっと働いただけの人生じゃん。そんなの悲しすぎる』って突然思ったの。
落ちるところまで落ちたから、急に気持ちが上向いた感じだった。
それで『やり残したことあるんじゃないかな。色々やりたいことがあったはずだ、何だったっけ』って考え始めた。

それまでは、大学を卒業したら、頑張って働かなきゃいけないって思いこんで、具合が悪くなっても会社に貢献することが正しいと思ってた。
でも、病気になったところで、会社は責任をとってくれるわけじゃないんだよね。そんなことにも気がついて。
何のために頑張ってたんだろうって。誰も責任を取らないのだったら、自分のやりたいことをやらないと後悔する。
自分の夢を思い返したら、留学を思いついた。人生のうちに、英語を話せるようになりたい夢があったの。
それで、留学することに決めたんだ。体調は悪かったけど、夢を先送りにする理由にはならなかった。『とにかく、留学しよう』って目的を持ったの。
手術は無事に終わって退院したら、ブリスベンで一人暮らしをしている従姉に電話をしたんだ。従姉は親戚から、すでに私の留学の話を聞いてた。
『一緒に暮らすのは、ちょっと考えさせて』って言ったけど、最終的にOKしてくれた。
 
ー従姉さんってどんな人?
従姉は私より6歳年上。
20歳の時に、オーストラリアに語学留学して、その後オーストラリア人と結婚して就職してから、ずっとブリスベンで暮らしてる。今はもう独り身だけど。
従姉の母と、私の母は姉妹で仲がよくて、私たちが子どもの頃は同じマンションで暮らしてたの。
だから、よく一緒に食事もしたり、遊んだりもした。
でも、年が離れてたから、従姉が実際どういうことを考えていて何に興味があるか彼女の深い部分までは知らなかった。日本とオーストラリアで離れ離れになったら、深く知り合うきっかけもなかった。
といっても、従姉も仕事の休暇のたびに、日本に帰ってくるから、私も時々会って遊んでたけど。
 
ー同居の許可を出してくれるなんて、優しい人だね。
私にとって、従姉は年の離れたお姉ちゃんという感じ。彼女にとっても妹からの同居のお願いという風に受け取って、OKしてくれたんじゃないかな。
 
ー留学先の学校はどうやって決めたの?
最初は、語学留学をしようと思ってたけど、従姉から『留学するなら、英語で専門分野を勉強した方が、より英語が身につくよ』ってアドバイスをもらったの。
私自身は、安定を求めて臨床検査技師の資格を取って、その仕事をずっとしていた。
元々ある医療の知識を英語で学び直すよりは、新しい分野にチャレンジしたいって思ったの。
当時勤めていた臨床検査会社の経営会議に出たことがあって、そこで『どうやったら会社の売り上げが上がるのか。どうやって取引先を探すのか』という話し合いが面白かった。
医療検査って、企業の売上やマーケティングを考える分野じゃないから、経営会議は新鮮だった。
その経験を思い出して、英語でマーケティングを学ぶことに決めたんだ。
留学するには会社を辞めなきゃいけなかったし、帰国後は、前より仕事内容も待遇も良い会社に就職したかった。
だから、『医療とビジネスの知識があって、英語が話せれば、自分の市場価値も高まるから再就職もうまくいくだろう』って思ったんだよね。学校は、自分でネットで調べて決めたよ。
従姉の家から近くて、マーケティングだけでなく、語学もセットで学べるコースの学校に決めたんだ。
 

パリ旅行へ

ー年末に会社を辞めて、次の年の夏に渡欧するまで、色々なことをしてたね。
英語の勉強をしてたね。節約しようと、横浜の500円英会話に通ったり、参考書を図書館で借りて勉強した。
でも全然英語が身につかなくて、勉強しては落ち込んでの繰り返しだった。
温泉旅行や散歩もしたし、写経にも挑戦した。体調は良くなったり悪くなったりの繰り返しで、全快する気配は全然感じなかった。体調は悪くて当たり前みたいな感じだった。
それでもあの頃は、将来の目標をよく考えてた。

夫が海外へ行ってからは、二人で住んでたマンションも人に貸してたから、私は実家で暮らし始めて一年近く経ってた。だから、再就職したら一人暮らししたいな、とか。住む場所は、憧れのあった異国情緒のある山下公園の近くに住みたいな、とか考えてたな。
3月に母とパリへ行ったんだ。パリ旅行は、私のやり残したことの一つだった。
パリは街並みも人もとにかくおしゃれで、自分が映画の中にいるようだった。どこを見ても絵になる場所。エッフェル塔やルーブル美術館も行ったけど、モンサンミッシェルは圧巻だった。
モンサンミッシェルは、パリから距離があるんだよね。バスで行ったけど、たどり着くまで時間かかったよ。
夕暮れのモンサンミッシェルは綺麗だった。
夕陽に照らされると、お城の明かりもぼおっと浮かび上がって、とても美しいの。
その姿を見たとき『ずっと見たかったものが見れた。やろうと思えば、できるんだ』って自信が湧いたんだ。
 
ーその時の旦那さんは、留学することは知ってたの?
メールで伝えたけど、返信はなかったかな。電話してもメールしても連絡はほとんど来ないのが当たり前だった。
そのときは、離婚するかも分からない、結婚生活がこれからどうなるのか、全然分からない状態だった。
 

ブリスベンへ。従姉との生活


ー学校は9月からで、渡航したのは8月だったね。
そう。日本と季節が逆だから、着いたときは寒かった。従姉が出張中で不在だったから、数日間ホテルで過ごしたんだよね。英語も苦手で、心細かった。
やっと従姉に会えて、『おつかれー』って声をかけてくれたけど、私は本当に疲れてたな笑
従姉の家は素敵で嬉しかった。中庭のある低層アパートメントの2LDKの部屋だった。普通の水準より比較的高い生活をしてるって、すぐに分かったよ。
私は同居生活のことを細かく想像してなくて自分の身支度しか用意してなかったけど、従姉は私のベッドを買って一人で準備をしてくれてたんだ。本当、ありがたかった。
ブリスベンは、オーストラリア第二の都市で、都会の雰囲気だけど、自然に囲まれている場所。
空もいつも晴れて青空の色が濃かった。
ブリスベンリバーという大きな川があって、公園があちこちにあって、くつろぐ人がたくさんいた。日本より、笑顔の人が多い印象だった。
従姉の家に着いて、荷物を置いたら一緒に散歩をしたよ。川沿いを歩きに行ったな。ジャカランダっていう紫色の桜みたいな花が街中に咲いていて綺麗だった。
それから、従姉との共同生活が始まった。
従姉とは初めて一緒に暮らしたのに、ウマが合ってた。朝ごはんも夕食も一緒に食べたし、買い出しも一緒に行ってた。
夕食は私が作ってたんだ。家にいるし、学校が始まってからも私の方が早く帰ってきてたから。
私も家事には慣れてたし、日本にいた頃は料理も作ってたけど、従姉の方が家事レベルは数段上だった。美味しいレシピもたくさん知っていて、色々教わった。
従姉は、生活そのものを大事にしてた。
『私は衣食住のうちで一番大事なものは住なの』って言ってて、部屋もとても綺麗で、ベッドシーツから家具までシンプルで素敵なものばかりだった。かといって、特別高価そうでもなかった。

センスのある人だと思った。何が自分にとって心地よいか分かっている感じ。
床もね、ユーカリオイルで磨くの。だから、いつも良い匂いがするんだよね
 
ー海外でゆとりある生活ができる経済力だけじゃなく、心のゆとりまである人なのね。そんな人と暮らせて良い体験だったね。
そう。経済力もあったし、生活を愛しているって感じだった。
従姉は、就職氷河期で日本で就職できなくて、海外だったらチャンスがあるだろうって、オーストラリアに行った人だった。だからちゃんと貿易関係の会社にも就職して、貿易関連の資格も持ってて、すごく自立心がある。
特別、凝った趣味はなかったけど、本もよく読むし、ドライブもするし、旅行もする。そういう生活を大切にしている人だったね。
従姉とは休日も一緒に過ごしたし、家事も一緒にしたし、なんだか夫婦みたいだった。
私が夫と暮らしていた頃は、私がクタクタになるまで仕事をして、疲れた体で一人家事をする毎日だった。夫は先に帰っても家事をしなかったからね。
夫と一緒に、生活を作っている意識は持てなかった。
夫は外食好きだったけど、私はスーパーのお惣菜でも構わないから家で食事をしたいから、生活のあちこちで合わないことが多かった。
従姉と一緒に食事をしていると、『こういう生活の方がいいな。こうなりたかったんだな』ってよく分かったよ。
 

留学生活スタート。さまざまな外国人たち


ー学校は始まってからどうだった?
語学コースでは、色んな国の人がいたよ。韓国、フィリピン、中国、台湾、南米、フランス、アフリカ、インド、世界中の人がいた。日本人は私を含めて二人だけ。
難民の人もいたな。
難民の人は『何とか英語を話せるようになって、この国で就職したい。せっかく亡命したのに、一緒にオーストラリアに来た友人たちは、英語が話せなくて帰ってしまった。でも、自分はどうしてもここで頑張りたい』って強い決意で来てた人だった。
そんな話を聞くと、私も人生色々あったけど、それでも恵まれてたのかなって思えた。
そんな真面目な人もいれば、留学自体に意義を持っている人も多かった。あわよくば、オーストラリアで結婚して永住権を持とうと考えている人も多かった気がする。
大人になって学生に戻るのは新鮮で楽しかったよ。学生のいざこざが日本の大学生活とほぼ一緒で、男女の三角関係とか、女子のいがみ合いとか、全く変わらなかった。人種や文化背景が違っても、同じ人間なんだなって、なんかほっとした笑
『俺できるぜ!』アピールする男子は、日本男子より多かったけど、実際できない人が多くて、できる割合は国が変わっても同じ印象だった。私の勝手な印象だけど。
友達もできて、特に同い年くらいの韓国人と仲良くなったよ。その子は政府の機関で働いていて、自分へのご褒美で留学に来た子だった。
みんなでご飯を食べたり、観光地へ出かけたりして楽しかった。
向こうは、クリスマスが夏の季節なんだよね。でも、クリスマスの飾りつけは、冬仕様になってるの。
オーストラリア人でも『クリスマスはやっぱり冬が似合うでしょ』って思ってるのかな?笑
その頃は、とにかく英語を身につけようと必死だった。
英語のコースが終わったら試験があって、それに合格しないと、マーケティングコースを受けられないから。
もし落ちても返金されないから、頑張って勉強した。
 
ー従姉とはどんな話をしたの?つらかった話もした?
結婚生活の話もしたよ。
でも私も過去を振り返っている途中だったし、ポツリポツリと話す感じ。
二人でドライブをしてたら、GReeeeNの曲が流れて『どんなにつらくても周りは平気で回ってる』っていう歌詞を二人で聞いてさ、『本当、そうだよね』って。
『動けるようになったら動けばいいんだよね』とか話したな。
日常の中で、ぽつりぽつりとね。
 
ー過去を振り返ってたというのは、日本での夫婦生活のことも、旦那さんが海外に行ってからのこととかも含めて全部?
夫の赴任先の近くに行った思い出もだね。せっかく夫に会いに香港まで行ったのに、彼はホテルにこなかった。『どこまで逃げる気?』って思って、すごく混乱したし、寂しかった。そんな思い出も含めて色々思い出して、すごく泣いてた時期だった。
ブリスベンの景色に癒されるときもあったけど、つら過ぎると、綺麗な景色もあんまり心に入らないことも多かった。
でも時々は景色に癒されることもあったし、邦楽に勇気づけられることもあったよ。
 
ーブリスベンにいた頃も旦那さんとは相変わらず、連絡が取れなかったんだ。相手不在のまま、一人で考えなきゃいけないのはつらいよね。
カウンセリングを受けようとか思ったりした?
カウンセリングではないけど興味本位で、自称・前世が見えるヒーラーと話をしたよ。
そのときに、初めて今までの気持ちをまとめて誰かに話すことができたんだ。私は誰かに自分の気持ちを伝えるのが苦手なんだよね。特につらかったこととかは。長女だから、親からよく『我慢しなさい』って言われてたし、我慢は正しいことだと思ってた。
だから、ヒーラーに伝えたときは、『もう少し家族や周囲の人に、アウトプットすればよかったんだな』って気がついたよ。
 
ーヒーラーからは何て言われたの?
ヒーラーは、『パートナーの心が見えるわ。相手は、もう少しあなたの本音を聞きたかったみたいよ』と言ってた。
でも『いえ、どんなに連絡しても返信はなかったから、違うと思います』って言い返しちゃった笑
 

ニュージーランドへ。大自然の中で


ーそんな頃、年が明けてニュージーランド(以下、NZと略)ヘ遊びに行ったんだよね。
そうそう、友人のしょう(著者の友人でもある。彼女のインタビュー記事はこちら)がいたからね。語学の試験が受かったけど、年末年始は日本への航空券も高いから、日本に帰るより、せっかくだからオーストラリアに近いNZに行こうと思ったんだ。
1時間ぐらいで着くだろうっていざ、飛行機に乗ったら、予想していたより飛行時間長くてさ、4時間近くかかった。平面の地図で見たら近いんだけど、実際の飛行距離は球面で見ないといけないんだよね。
しょうは相変わらず元気で明るくて、『久しぶりー!みかげの泊まる場所?用意してないよ〜』って、いい意味で気を遣わなくて楽だった。
しょうが当時泊まっていたバックパッカー向けの宿に行ったよ。色んな人がいて、私が普段接している留学生たちとはまた少し雰囲気が違ったね。すでにNZで働いている人もいたから。
それから、二人でドライブしたり、あちこち旅行したの。
NZは、島全体がパワースポットみたいに、迫力がある。自然の浄化作用が私に響いて、体じゅう癒されていく実感があった。
オーストラリアも綺麗だけど、ブリスベンは都会だから自然の迫力があるというわけではない。NZの自然は、オーストラリアの自然よりずっと大きかった。1日の寒暖差も激しくて、花が咲いたり雪が降ったり。
遠くの山際は雪が積もっているのに、目の前の草原は一面花が咲いていて、野ウサギがぴょんぴょん飛んでいく。もう、おとぎ話や絵本の世界に入ったようだった。
野生の牛の群があって、しょうと二人で近づいたの。でも怖くなって群に背を向けて離れると、群がずずっと近寄ってくる。
二人で振り返ると、群が止まる。その繰り返しで、ちょっと怖かったけど、二人で笑い合って面白かった。
川もミルキーブルー色で見たことのない景色ばかりで、それまでの人生のなかで一番美しい国だった。
モンサンミッシェルも、綺麗だったし、パリの街並みも美しかったけど、NZの自然は私にとって桁外れだった。自然に癒されて、心に響いたの。
しょうとは、英語習得の難しさについて語り合ったり、最近どう?とか楽しい話をしたよ。それも、すごく気分転換になった。
とにかく、NZとしょうから元気をもらって、オーストラリアに帰ったんだ。
 

いよいよマーケティングコースの開始。ますます難しくなる英語


ーマーケティングコースは、語学コースとクラスにどんな違いがあったの?
マーケティングコース(以下『マーケコース」と略)では、ブリスベンに住む20歳くらいの子が多かったな。
当時30歳の私からすると、20歳くらいの子たちにたいしてジェネレーションギャップを感じちゃってね。
こっちは仕事もしたし結婚してマンションも車も持って、さらに離婚もしそうで色々人生経験があるのに、高校出たばっかの子とは、なかなか話題も合わないよね。
物事の捉え方も観点も違う感じがした。
彼女たちは『12時間以上寝てたら、ホストファミリーに叩き起こされたのー』『えー、信じらんなーい!』って盛り上がってるんだけどさ、こっちからしたらどうでもいいし、共感もできない。ホストファミリーの人だって、掃除や洗濯がしたかったかもしれないし。
私の問題もあったかもしれないけど、マーケコースでは心から話せる友人ができるとは思えなかった。表面上、仲良くはしてたけど。
それに、いくら英語の試験に受かってマーケコースに来たとはいえ、私の英語レベルなんて生粋のオーストラリア人からしたら、小学生レベルだからさ。
言語が劣っていると、知能まで劣っているような目で見られている感じだった。
マーケティング自体は面白かったし、楽しかった。難しいとは感じなかったな。
私に向いてたんだと思う。
驚いたのがレポートの数。卒業した日本の大学よりレポート数がずっと多かったよ。グループワークも多くて、調べることがたくさんあって、採点も厳しかった。
よく聞かない?日本の大学は、入学試験が難しくて、卒業は簡単って。オーストラリアは日本の逆。
クラスの同級生も、どんどん脱落していって、コースが始まった時はクラスメイトが40人いたのに、最後に残ったのは8人だった。それぐらい厳しかったの。
でも私は絶対卒業しようと思った。『絶対に、絶対に、学費を無駄にしない』って自分に言い聞かせて頑張った。
 

突然のホームシック


ー日本が恋しくなったりした?
その頃ホームシックになったの。
ちょうどオーストラリアに住んで半年経ったくらいで、外国にいる緊張が少し抜けたときだった。
恋しいとかそんな生易しいものじゃなかった。すごくつらかった。
シックって言葉がつくぐらいだから、本当にうつになるんじゃないかと思ったよ。邦楽とか日本映画とか漁るように見て、自分の心を保ってた。
だから、家で従姉と日本語で会話したり、NHKの朝の放送を毎朝楽しみにしたりしてた。日本食も好きだったから、どうしても明太子が食べたくなって、夢に明太子が出てきたこともあったな。
 
ーホームシックはどうやって乗り越えたの?ずっと続いたの?
乗り越えられなかった。私はずっと続いたね。でも、学校もあるし、帰国するわけにいかないから何とかごまかして過ごしてた感じ。
 
ーそんなつらい思いをしながら、勉強も頑張ったんだね。
頑張らないと卒業できないから。
マーケより、私にとってはやっぱり語学が一番難しかった。
語学コースより、ずっと英語の難易度が上がったから。
印象的だったのは一度、レポート提出三日前に、作成中のレポートデータが入っていたUSBを無くしちゃってね。
週末を使って3日で100ページ以上のレポートを作り直したこと。徹夜はしなかったけど、ご飯食べる以外、起きてる時間はずっとレポートを作った。
 
ー100ページ以上のレポートを三日で?もちろん英語のレポートだよね。すごいね!
しかも従姉妹は出張でいなかったから、アドバイスももらえず泣いたよ。一人で泣きながら作り直した。
でも、レポートの内容はすごく面白かった。
学校が用意した会社ゲームがあって、生徒一人ずつ自分の会社をゲーム上で設立して、自社製品を世界中に売り込んで行くの。だからクラスメイトの会社がみんなライバル。
自分の会社の製品を売り込むためにどんな戦略を持つか、会社はどの媒体に広告を出せばよいのか、どの市場にお金を投資をするか、顧客層はどこに絞るかとか経営戦略を個々で練って、自社製品を売って行く。
戦略も一週間ごとに変えていくの。
従業員もゲーム上で雇えるし、会社が使うパソコンのソフトもゲーム上で購入してパワーアップさせられる。すごく本格的でしょ?
その計画や過程、結果をまとめたレポートだった。
ゲームの結果は、私が全体の50パーセント以上のシェアを取って優勝したの。
英語をたいして話せない私が、アップル並みのシェア率を叩き出しちゃった。
自分のシェアにどんどん塗り替えられるのが面白くて、夢中になって勝ち続けたら、先生から『もういい、止めろ』って言われたよ笑
クラスメイトはみんな20歳ぐらいなのに、大人気なかった笑
あのゲームのおかげで、今でも会社の業績を見るのが面白くて、役立ってる。
みんなにオススメするゲームだな。
 
ーじゃあ、その学校に通わないとだね笑。
そんな大変な時期に、優しくて素敵な従姉がそばにいてくれてよかったね。
従姉もよく励ましてくれた。『あんた、偉いね。頑張ってるね』って。
従姉がそばにいてくれたことで、私も勉強を頑張りながら少しずつ癒された気がする。
私も同居して、初めて従姉のことをよく知ったんだ。
彼女の話からも、本棚に置いてある本とかからも。
『ああ、こういうことで悩んでたんだな。予想はしていたけれど、やっぱりそうだったんだな』とかね、従姉の過去の悩みを垣間見ることもあった。
そういえば、彼女は『キッチン』の愛読者だったよ。
彼女から、家族にたいする思いを聞くと、『こんなに家族思いだったんだ、優しい人だな』って知ることができて、より彼女を愛せることができたね。
 
ー従姉にとっても、みかげのことを知れたし、色んな話を聞いてもらったんじゃないかな。
一緒に暮らさなかったら、従姉との絆が深まる機会もなかったよね。
そういう関係ってあるかもね。深い絆になるかもしれない関係が身近にあったなんてね。きっかけがないと、分かんないもんだよね。これからも。

 

帰国


ーホームシックもあったし、卒業できたときはやっと日本に帰れるって感じだったの?
日本に帰っても特別感動はなかった。
『次は仕事を探さなきゃ』って、就活で頭がいっぱいだった。
12月の半ばに帰国して、仕事が決まったのは2月だった。
家族にも、『もっとゆっくりすればいいのに』って言われたけど、早く働きたかったんだ。
 
ー希望の会社に就職できたの?
うん。英語を勉強したから、外資系の医療メーカーに勤めたいって思ってたの。外資系で、色んな国の人と関わって、広い視野で仕事ができるようになったらいいなと思ってた。
そうしたら、希望の会社に就職することができた。
面接試験は英語だったの。留学前の私だったら、絶対就職できない会社だったから、嬉しかったね。
収入も前の会社より良くて、夏には引っ越しして、憧れの地で一人暮らしを始めたよ。
就職後は、私の仕事ぶりがよかったらしく、さらに月収をあげてくれたこともすごく嬉しかった。
夏ぐらいに体調がよくなったね。やっと安定した感じだった。
 

日にちぐすり

ー旦那さんとはその時どうだったの?
やっとメールが来たよ。それで会って話すことができた。
私もやりたいことや勉強を頑張りながら、時間が経って、その中で、思い返したり整理したりした。
時間が薬になったみたいに、ちょっとずつちょっとずつ色んな考えや思いがほぐれて行った。
何が正しかったのか、いけなかったのか、簡単には分からなかったし、要因も一つじゃない。
余裕がない精神状態のときは難しいけど、だんだん整理して考えられるようになった。
相手もそうだった。
 
ーそれで話し合って、離婚を決めたんだね。
やっと着地する場が見つかった感じだった。
でも、別れたり離婚届を出したりアクションとしては区切りはつくけど、気持ちは簡単に切り替えられない。
『はい、今までの気持ちはここで終了』って簡単にできる人はいないんじゃないかな。
心の中は、グラデーションだと思う。
区切りがついても、そこでいきなり癒えるわけではないし。
何事も少しずつ、大丈夫になったかなって思ったら、また前に戻ったり、だんだん薄らいでいって、新しい刺激や毎日が強くなっていって、少しずつ心も成長していくって感じだと思う。
 
ー日本に帰国してからも、従姉さんとは連絡を取り合ってるの?
ちょこちょこラインしたり電話したり、帰国してからは毎年クリスマスプレゼントも送ってる。感謝しているから。
私が従姉妹と暮らしたことで、叔母も母もすごく嬉しかったみたい。
叔母はいつも従姉を気にかけているけど、外国だしたまに会えるぐらいだから『一人で大丈夫かしら?』っていつも心配してた。
私が一緒に暮らしたことで、叔母を安心させることができたし、帰国してからは私が親戚を巻き込んで、従姉と交流するから、親戚一同ハッピーになった感じ。
従姉はしっかり者だけど、私が一番気にかけてあげたいって、いつでも思ってるんだ。

帰国するときに、従姉からジャカランダとブリスベンに流れている川が描かれている絵をプレゼントされたの。
いつも二人で行っていた青空マーケットにいた絵描きさんが描いた絵なんだ。
従姉との暮らしは、今の私の暮らしにも生きてる。
床磨きには、ユーカリオイルを使うし、教えてもらったレシピを作ることもあるよ。

コロナが落ち着いたらまたブリスベンに行きたい。
私のアナザースカイだから。
もう一つの故郷だし、頑張った場所だから。
従姉とも会って、楽しくおしゃべりしたいな。