「呼吸法」について考えたこと 【後編】
【前編】では、呼吸法の「効果」と、呼吸法が大切である理由を、「生命進化」の視点から見ていきました。
【後編】では、呼吸の「真価」と、呼吸法を実践する上での心得、呼吸法にまつわる「おまけ話」を書いています。
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(3)呼吸の「真価」は、解明されていない
① 呼吸の「機能」とは?
現代では、呼吸の「機能」といえば、「酸素を受け入れて、二酸化炭素を排出すること」だと言われます。それ以外の「機能」について言及されることは、(めったに)ありません。
ですが、呼吸の「機能」が「酸素と二酸化炭素の交換」のみであるならば、古来より多くの先人たちが、「呼吸」に可能性を見出し、「呼吸法」の探求を続けてきた理由を説明できません。
単に「酸素と二酸化炭素の交換」という「機能」の向上を追求するならば、「心肺機能の強化(たくさん吐いて、たくさん吸う)」が唯一の結論となりそうです。それならば、世界中でマラソンや高地トレーニングが探求・実践されたはずです。ですが、そうはなっていません。
先人たちは、「呼吸」について、このように直感したのではないでしょうか(注:酸素・二酸化炭素の存在が科学的に認識されたのは18世紀)。だからこそ、古来より「呼吸法」として探求が続けられてきた、そのように考えを進められそうです。
② 先人たちの「鋭敏な感覚」は「科学」を先取りする?
先人たちは、自身の身体や周囲の環境に対して、われわれ現代人よりも、遥かに「鋭敏な感覚」を有していました。
「膨大な外部情報の処理」に脳のリソースを費やす現代人とは違い、先人たちは、その(脳のリソースの)多くを、(自身の)身体感覚や、周囲の環境(例えば、外敵の気配)の把握に使用できたことが、その(1つの)要因です。
呼吸の「真価」を探求するという点においては、先人たちの「鋭敏な感覚」は、「科学」を先取りしているのかもしれません(注)。
(注)先人たちの「鋭敏な感覚」が「全て正しい」と言うつもりはありません。先人たちの「鋭敏な感覚」に基づく「直感」の多くは、科学によって「迷信」として否定されています。
③「下丹田」と「腸脳相関の研究」から見えること
先人たちの「鋭敏な感覚」が「科学」を先取りする、という点については、「下丹田(臍下丹田)」と「腸脳相関の研究」が(1つの)実例として挙げられそうです。
「丹田」は人体に3か所(上・中・下)あると言われていますが、「丹田」という具体的な「臓器」は存在しません。ですが、それぞれの「丹田」の位置を見ていくと、各「丹田」の奥には、「人体の急所(心身において大切な臓器)」が存在していることがわかります。
上丹田:「眉間」に位置する。その奥には、「脳」がある。
中丹田:「鳩尾(みぞおち・みずおち)・水月(すいげつ)」に位置する。その奥には、「胃」を始めとする消化器系の臓器がある(教義や書物によっては「心臓」の位置)。
下丹田(臍下丹田・気海丹田):「臍下(へそした・せいか)」の下腹部に位置する。「肚(はら)」とも言う。その奥には、(主に)「腸(小腸・大腸)」がある。
基本的に、「丹田」という場合には「下丹田」を意味します(*3)。
不思議だと思いませんか?
「上丹田」に対応する「脳」や、「中丹田」に対応する「胃」が、心身において大切な役割を果たすことは、誰しも経験則でわかります(「頭痛」や「胃痛」といった形での、存在の自己主張も激しいです)。
ですが、3つの「丹田」のうち、最も大切なのは「下丹田」とされています。そして、(上述の通り)「下丹田」に対応する臓器は、(主に)「腸」なのです。
人体についての生理学的・解剖学的な知識を(ほとんど)持たない先人たちが、存在を主張しがちな「脳(上丹田)」や「胃(中丹田)」よりも、「腸(下丹田)」に重きを置いたという事実に、私は先人たちの「鋭敏な感覚」を見て取ります。
最近まで、「腸」は主に「消化・吸収」を担う臓器として捉えられてきました。ですが、近年の研究によって、人体の免疫細胞の半分以上(!)が「腸」にあることが分かってきました。そのため、今では、「腸」は「人体最大の免疫器官」と言われています(*4)。
それだけではありません。
「脳(メンタル)」が「腸」に影響することは、多くの人が、知識としても、経験としても、ご存知だと思います(例:緊張するとお腹が痛くなる)。ですが、その逆、「腸」の状態が「脳(メンタル)」に影響を及ぼしていることが、最近になって分かってきました。
このように、「腸」と「脳」が、互いに影響を及ぼし合うことを「腸脳相関」と呼びます。
「免疫」という概念どころか、人体についての解剖学的・生理学的な知識さえ(ほとんど)持たない先人たちは、(主に)自身の身体感覚や周囲の経験則を頼りとして、「下丹田(≒腸)」の重要性を見抜いたことになります(※先人たちにとっては、「臍下に意識を集めて呼吸をすると、なんだか良い感じがする」くらいの感覚だったかもしれませんが…)。
「腸脳相関」の話を聞いた時、私は先人たちの「鋭敏な感覚」に驚愕したのでした。
話を戻します。
「呼吸」についても、先人たちは「酸素と二酸化炭素の交換」以外(以上)の働きがあることを、その「鋭敏な感覚」によって感じ取ったのではないでしょうか。「下丹田」の重要性が、最近になって「科学」によって解明され始めたように、「呼吸」についても、これまでに解明された以上の「何か」が、いずれは「科学」によって(後追いで)解明されるのかもしれません(何より、そのように考えたほうが面白いですよね)。
(4)呼吸法は、「自分で」研究、実践する
① 呼吸法等は「自分で」研究する
師匠からは、「独り稽古」の大切さを教わりました。それは合気道の「技」に限ったことではありません。「呼吸法」についても同様です。
当会では、稽古の冒頭に必ず呼吸法を行います。ですが、道場で呼吸法を行う主眼は、あくまでも「実践方法をお伝えすること」に置いています。
なぜなら、呼吸法のようなものは、本来、自分自身で丁寧に、時間をかけて実践・研究するものだからです(逆を言えば、道場で行う短時間の呼吸法だけでは、実践・研究には不十分です)。
この点について、多田先生は次のように説明されています。
② 師匠に就いて稽古法を学ぶ
とはいえ、呼吸法のようなものを(ゼロから)個人で研究・実践することは大変難しいと思います。ともすれば、「よりたくさんの酸素を受け入れる」とか「より長く息を吐ける」といった、(物理的な)「呼吸力(肺活量)」の鍛錬に偏ってしまう可能性もあります(それはそれで効果はありますが、、)。
だからこそ、(短時間ではありますが)道場において「呼吸法の実践方法」をお伝えするようにしているのです。
ちなみに、多田先生は、植芝道場への入門後に、(主に)次の3師に就いて、各種の呼吸法を学ばれました。これらの教えが、当会で実践する「呼吸法」のエッセンスとなっています。
植芝盛平先生(合気呼吸法)
中村天風先生(ヨーガ呼吸法)
鉄叟日野正一先生・みちゑ先生(一九会道場・禊呼吸法)
私自身は、多田先生を通して、植芝盛平先生の合気呼吸法と中村天風先生のヨーガ呼吸法のエッセンスに触れるとともに、一九会道場において禊呼吸法を修練する機会に恵まれました。岐阜へのUターンによって、(物理的に)多田先生や一九会道場からは離れてしまいましたが、これまでに学んだことは、自身で呼吸法を稽古・探求する上での、大切な基礎となっています。
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【おまけ①】「吐く」が大事
① 禊呼吸法では、とにかく「吐く」
私が通った一九会道場(東京都東久留米市)では、禊呼吸法(・座禅)の修行が、絶えることなく行われています。
禊呼吸法では、とにかく「(息を)吐く」ことを大切にします。「吸う」ことは(ほとんど)意識せず、ひたすら「吐く」のです。
この、「(息を)吐く」という感覚を掴むために、一九会道場の入会希望者(「初学者」と呼ばれます)には、3泊4日にわたる修行(禊初学修行)が求められます。初学者たちは、この修行をやり遂げて初めて、一九会の会員として認められます。
そして、数名の初学者のために、日本全国(しばしば海の向こう)から、延べ何十人もの先達たちが手弁当で集まり、初学者の「ひたすら(息を)吐く」修行を扶けるのです。
こうした修行の存在は、「しっかりと息を吐く」という行為の難しさを物語っています。人間にとって「息を吐く」という行為は、(当たり前の行為であると同時に)それほど特別であり、可能性を秘めた行為なのです。
②「吸うは易く、吐くは難し」
前項では「禊呼吸法」の修行を例として、「(息を)吐く」ことの大切さと、その難しさに触れました。「吐く」ことの難しさは、人体の構造からもわかります。この点について、先述した『人体 5億年の記憶』には、次のような一節があります。
呼吸機能の中心は「肺」ですが、肺そのものが「自動的に」収縮するわけではありません。横膈膜や肋骨の間にある筋肉(肋間筋)、頸部や腹部の筋肉によって「肺の周りの空間(胸郭)」が拡張・縮小するに伴って、「受動的に」収縮しているのです。
考えごとをしたり、悩みがあったりする状態(精神の緊張状態)では、こうした呼吸に関わる筋肉も緊張します(肉体の緊張状態。全身がこわばり、肩が凝るような状態)。すると、胸郭は大きくなり、胸は陰圧となって、息が「吸われる」状態となります。
緊張する場面で呼吸が浅くなる(深く息を吐けない)ということは、多くの人が経験することだと思います(その最たる状態が「過呼吸」)。これは、人体の機能が、「吐く」ことよりも「吸う」ことに偏っていることを表しています(*5)。
だからこそ、「吐く」という行為・感覚を、「意識的に」涵養する必要があるのです。一九会道場における、「ひたすら(息を)吐く」という修行は、その徹底的な実践、と捉えることもできます。
最後に、「(息を)吐く」ことに関する、同書の記述を引用して【おまけ①】を終えたいと思います。
【おまけ②】「断定」して、「実践」する
合気道の稽古を始めて間もない頃、職場の先輩から「合気道って呼吸法をやるでしょ。あれって意味ないよね」と言われました(その先輩は長く空手を稽古されている方でした)。呼吸法に触れたばかりの私には、それに対して返す言葉を持ち合わせていませんでした。
呼吸法に対する当時の私の認識は、「師匠があれだけ良いものだとおっしゃるし、実際にやってみると何だか色々と良い感じがする」という程度でした。そのため、呼吸法の効果や意味について、言語化できるほどの「体感」も「知識」も足りていませんでした(現在も修業中ですが、この記事を書こうとする程度の「体感」は得られました)。
ですが、呼吸法を行うにあたって大切なのは、(実感の伴わない)「知識」や「言葉」などではなく、「断定(注:盲信ではない)」と、「実践」だと思います。
呼吸法に関する「知識」は必要だと思いますが、「知識」が「体感」に先行してしまうと、呼吸法に伴う「微細な心身の変化」や、「(やる前には)思ってもみなかった呼吸法の効果」に気付けないおそれがあります。
「知識」が先行すると、事前に「知識」として得た「効果」をなぞろうとするからです。そのため、「呼吸法」の「効果」を言葉で説明しすぎないことも大切です(この記事でも、抽象的な「効果」についてはあまり言及していません)。
ここまで書いてきたように、呼吸法には「酸素と二酸化炭素の交換」以外(以上)の「効果」があることは間違いありません。まずはそのように、自分自身で「断定」します。
そこからは、教わった手順・ポイントなどを丁寧になぞりながら、各自が呼吸法の「実践」を通して、自身の心身に起きる「変化」(=「効果」)を確認していくことになります。
【おまけ③】呼吸操練について
稽古の冒頭で行う「呼吸操練」の名称は以下のとおりです。
道場では「略称」を用いて説明していますので、ここにそれぞれの名称を掲載します。各自で実践する際の参考としてください。
(本文終わり)
【参考・引用文献(後編)】
(*3)白隠禅師『夜船閑話』『遠羅天釜』、貝原益軒『養生訓』
丹田についての記述は、白隠禅師の『夜船閑話』にも登場します(以下)。
(*4)ヤクルト中央研究所 ‐ ヤクルト健康コラム
(*5)人体の機能が、「吐く」ことよりも「吸う」ことに偏っているという特徴は、運動時にも現れます。
【合気道至心会のご案内】
岐阜市を中心に活動する、合気道の道場です。
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