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10. 彼に寄り添いたい!ではじめた、力まない就活。違和感に気づき、適切な別れを。起業家と親しくなりやすい人生のはじまり。

二十歳、高校で一目惚れした同級生が初彼に。

二度目の桜の季節を迎え、新たに二つ京大のサークルに入ることに。ぽっかりと心が空き、別の居場所を探そうとしたのであろう。気を利かせてくれた優しい兄の誘いを受けて、彼が大学時代に所属していたテニスサークルに遊びに。すると、衝撃的な出逢いがあった。「あれ、、あの人って、ま、まさか、、高校最後の体育祭前の練習で見かけた人なんじゃ、、」そう、フォークダンスの練習で見かけた際、「うわあ、、かっこいい」と息を呑み、一目惚れした人が目の前にいたのだ。何度かデートを重ねて、初めて同士のお付き合いがはじまった。

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彼とは四年強、共に時間を過ごした。お父様譲りの機械好きで、バイクや車をこよなく愛していた彼。外を歩けば、耳を澄ませ、エンジン音を当てる遊びをたのしんだ。爽快感や風との一体感がたまらなく好きな私は、バイクに乗せてもらえるときは大喜びであった。彼と雰囲気がよく似た、やさしく穏やかであたたかさのある彼のご家族とも、何度か一緒にお出かけさせてもらい、とてもよくしていただいた。

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彼に寄り添いたい!ではじめた、力まない就活。

当時の私は、彼以外の対象にはどこにも意識が向いていなく(いわゆる意識が高くなく)、社会人になるというのもピンときていなかった。二年の頃から会社説明会に顔を出していたが、自分に合った仕事を探したいからではなく、会社という未知なる組織への好奇心からであった。三年生になり就職活動が本格化したときには既に一切の興味が失せており、まったくやる気なし。その頃からであろう、私は学歴における劣等感を認識しはじめていた。家族含め、まわりに京大生が多かったからか、中高時代の屈辱からか、単に母と同じ大学卒となることが気に食わなかったからか、学歴コンプレックスを抱いていた親友が就活の際に大学名で蹴落とされる話を影響に受けていたからかは、未だ不明である。学びたい思いが特段強くなかったにもかかわらず、京大の名前を得るためだけに、京大大学院人間環境学研究科への進学を考えた。当時、割と何でも相談していた父に「消去法なら働きなさい」と言われ、ううーとじたばたしていたが、一蹴されておいてよかったね。ありがとう。

大学の友人たちがスーツを着て着実に活動している中、焦りを感じつつも、一貫して、したくないことはしないを徹底していたため、採用サイトを白目でぽちぽちするだけで非常に動きが鈍かった。自分がしたいことがわからない中、よく知らない会社に向けて、いわばラブレターであるエントリーシートを書くのは気が進まなかった。既にそろそろ決めないとまずい時期にさしあたっていたが、笑えるほどのんびり。

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彼が大学院を卒業したら結婚しようね、と思い合っていた二人。当時は、結婚とはそういうものであると捉えていたのであろう。ある日、気が強い方ではない彼が社会人となったときの状況を想像し、「あ!彼が会社で大変な思いをしても、私が会社の大変さを知らなかったら寄り添えない!会社で働こう!」と、随分と遅ればせながら社会人になりたいスイッチが入る。二人の家から通いやすい、京都の阪急沿線で働ける会社を探しはじめた。

画面上で丁寧に応募したのは、後にも先にも、私の人生で二社だけであろう。これからは IT の時代だ!と捉えていたのか、システムの会社に関心があったようで、中でも、グローバル企業であるトランスコスモス社が目に留まった。小学生の頃から地球儀に惹かれていた私は、採用サイトに載っている世界地図に惹かれたのかもしれない。それほど単純な理由であった気がする。もうひとつは、本社を烏丸御池に構える会社で、自転車十分で通える立地の良さが理由となった。前者はさらっとご縁がなく、後者は人事担当者が第一印象でとても気に入ってくださり、熱心なお誘いを受け取ったため、翌年から通うことを決定。かくして、気負わずお話しただけの就活は数週間で終わったのであった。

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お互いに溺愛し合っていた彼とは共依存関係にあったんだなあ、と今なら自覚できる。父譲りの頑固者で自分の意思を絶対に曲げない融通の利かなかった私を、しょうがないなあ、ちょっと怖いよお、と多少恐れながらも、彼は心底愛してくれた。人と交わるのが好きで活発な私に対し、彼はおとなしく控えめであった。「愛華はどこでも誰かから道を尋ねられるね。」「旅行先、街中、どこに行っても、愛華の知り合いに会うね。」と繰り返す、彼の寂しげな表情を覚えている。彼が何をしていても何を言っても愛おしく感じ、「愛華は尽くしすぎ」と共通の友人にツッコまれるほどには愛を注いでいたと認識していた。が、彼の心を安心で満たすどころか、私自身の在り方によって彼自身が彼を慈しむことから遠ざけるきっかけを与えていたのかもしれない。当時、携帯を充電していると、「毎日充電する必要があるほど、誰と連絡取るの? 」と怒り半分に悲しんでいた彼に遠慮し、隠して充電するようになり、次第にその状況に窮屈さを感じていた。「サークルの飲み会、同期の集いに行かなくていいやん」「僕だけに集中してほしいよ、、」と彼がおもうほどには、彼に対して、安心安全、支えを与えきれていなかったのであろう。寄り添いが足りていなかったね、ごめんね。

彼とは、社会人二年目の春頃まで愛を育んだ。想定外に営業職を大いに謳歌していた私は、真剣に研究に励む大学院生であった彼との間に、働く中で成長し自分を活かしてあげられ場や社会に役立てる場をもてるよろこびへのズレが募っていったようにおもう。当然ながら、異なる環境で育った私たち。志事に誇りをもち頻繁に口にする母を見て育った私と、専業主婦を努めるお母様を見て育った彼。結婚後は外で仕事をしないでいいよ、という思いが彼から伝わってきてはどうしようもなく違和感に苛まれていた。一年近く、心の距離が離れていくのを感じた。

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長らく狭小さを感じている状態に耐え切れず、一方的に逃げるように抜け出したように、彼と別れた記憶がある。心が叫んでいたんだね。ごめんね、自分自身に必要なスペースを与えてあげたかったんだとおもう。私は後ろを振り返らず想い出を全消去して歩んでいくことを好んでいたため、別れてからは一切の連絡をとっていなかったが、相当に苦しめ、悲しませたに違いない。彼以外にも傷つけてしまった人は多かったであろう。ごめんね、赦してね。

四、五年前、ちょうど San Francisco にいた時、彼が結婚報告のお電話をくれた。携帯番号を変えていないのでつながったようだ。「実は、愛華が羨ましかったんよ。」と伝えてくれた彼は、相変わらず、素直で純粋で清らかで優しく愛らしい人であったように声から感じた。その際、「僕も海外に行きたい、海外で働きたい。」と言う彼に、「それならいますぐ会社を辞めて、とりあえず行きたい国に行っちゃえばいいのやん♪」と率直に返す私。私たちは明らかに right person ではなかった。月日が経てば経つほど明確になっている。この物語を読んでいる人の誰もがそう感じるかもしれない。別れ方に関しては、より丁寧に対話を重ねることで不必要な深手を負わずに済んだであろうと猛省し申し訳無さで心が痛むが、別れたこと自体は二人にとって絶対的に適切であった。彼が right person と出逢い、共に幸せな道を歩もうとしている状況を知れて、本当にうれしかった。救われた思いであった。伝えてくれてありがとう。おめでとう。キラキラと光る共に過ごせた瞬間たちもありがとう。四年間、愛してくれてありがとう。友としてあふれんばかりの愛を込めて。そして、世界中の人が、SOUL MATE だと感じるほどの RIGHT PERSON と巡り逢い、共に豊かな瞬間を紡いでいかれることを心から願って。

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複数名が起業家に。学びや創造性を与え合うともだちとの出逢い。

大学二年生の春、もしかすると一年の中頃であったかもしれない。もうひとつ入ったサークルがあった。少数精鋭が集う、京大唯一のビジネスサークルである。明確なのは、私はメンバーとして一切に役立たたなかったが、ともだちとしてはたのしい時間を共に過ごさせてもらい、みんなには心底感謝していること。大学の食堂や中心人物のお家によく集い、わくわくしながら議論したり数学の話をしたり、王将の餃子を食べたり美味しい紅茶をいただいたりと、私にとってひとつの大切な居場所であった。大体の話は理論的でむずかしく、私はマスコット的に笑いながらうなずき横で座っているだけであったが、それでも居心地が良かった。大学卒業後も、東京で定期的に集ったり結婚式に参列するほどには大切な、刺激と学び、探求、創造性、自発性、突破力、胆力を背中で見せ合える存在である。今おもうと、起業家と親しくなりやすい人生のはじまりはここからはじまっていたのかもしれない。

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彼らを一言で表すと、それぞれに得意分野をもった、超のつく頭が切れる優秀さを誇る異能たち。メンバー同士で学生起業したり、そこが一区切りしてからはまた別の会社を起業して別のメンバーと一緒になったり。一周回って、それぞれが香港やイギリスの海外の大学院に進み、その後、再度イギリスで起業しては、新たな別のメンバーを招いたり。またその弟さんも起業していたり。別のメンバー数名も大手企業を退職後、独立して起業していたり。と、それぞれにご縁が深い。シリアルアントレプレナー以外でも、大学院に進み学んだ人がいたり、大学で助教を務める人がいたり、数学を舞台にしたマンガ『はじめアルゴリズム』の監修をしている人がいたり、海外にある日本の大企業で奮闘している人がいたり。みな存在感が強すぎて、記憶に薄れることがない。

彼らが創ったり参画した組織のいくつかは、日本のスタートアップ界隈を賑わせていた。数年前に起業し、メンバーが再集結した Synthetic Gestalt(人工知能で新しい薬を発明することに挑むスタートアップ)は業界での期待が高いであろう。他には、Capy(サイバーセキュリティー関連のスタートアップ、ジグゾーパズルのピースを画像上に移動させて認証する不正ログイン対策の技術を開発)や LAPRAS(エンジニア向けAIヘッドハンティングサービス「LAPRAS」を展開するスタートアップ)、2019年に創業したキビタス(オンライン紛争解決やスマートリーガルコントラクトなど、Society5.0における次世代型法律サービスの研究開発および社会実装を行うスタートアップ)などがある。何もできないながらで恐縮ではあるものの、彼らを遠くから眺め応援し続けている。

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中でも、まるで世界観が違っていて、哲学書の中にいるような、異次元で神秘的な存在がいた。最も親しく、自然や日本の美を味わう目的で未知なるセカイにたくさん連れて行ってくれた彼からは、品性や美、芸術など多くの学びをいただいた。今では誰もが彼と行方がつかず大変に残念ではあるが、彼のことなのでイギリスか日本の空気が澄んだ、落ち着いた山かどこかで、美味しい食を堪能し、紅茶や日本茶に至福を感じ、無常な世の今ここの瞬間を噛み締めているのであろうと想像している。全身黒い服を着た人に惹かれるのは、ヨウジヤマモトを常にかっこよく着こなしていた彼の影響かもしれない。私の心に強く刻まれている大切な一人である。恋しくおもう。

私たちの活動は、講演会やビジネスコンテストの主催、そのための、スポンサー企業探しや参加者の集客、運営であった。夜行バスで東京へ、ぐるなび創業者で当時会長の滝久雄さんにスポンサード支援のご依頼にお伺いさせていただいたことは今でも覚えている。他の優秀なメンバーにお任せしていたので、話した内容は今では露知らずではあるが、滝会長を目の前にした会議後、緊張が解けてみんなで笑った瞬間だけは微笑ましく記憶に残っている。

奇遇にも、この頃から、後にご縁をいただく外資系企業との関わりがあったようだ。Microsoft Student Partners として活動していたメンバーが数人いたからである。八年後、私が所属していた本部が担っていた大切な活動のひとつであり、忘れている巡り合わせっていくつもあるんだなあと感慨深くなる。

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他にもいくつか、興味深い人をお招きし、講演会を主催していた。代が変わっていき、私はほとんど携わっていないが。たとえば、マッキンゼー出身でディー・エヌ・エーを創業した南場智子さん、京大卒業後すぐはてなを創業した近藤淳也さん、グロービス経営大学院学長の堀義人さん、Microsoft Japan 当時のCTO など。その後一層に名を馳せた彼らに、2009年辺りにリーチしていたメンバーの審美眼にはまったく恐れ入る。

同世代にこんな手練れがいるのかと驚かされ、己の無知を突きつけてもらう機会を幾度となく得た。ただ、あまりにもかけ離れた存在だったゆえ、もはや卑屈になることはなく、彼らとは異なる私の特性を活かしてあげたいと思えていたようにおもう。あれ、、でも、もしかすると、やっぱりすこしは緊張を抱き、劣等感を抱いていたのかな。あはは。京大に行きたいとおもった一番のきっかけは彼らの存在、その能力であったのかもしれないね。

存在してくれてありがとう。改めて、かけがえのない刺激をありがとう。努力が詰まった輝かしい才よりも、それぞれの青々とした透明なまでの心の純粋さや一切の濁りがない清らかさ、適切におもいやれる優しさに惹かれていた。ひとりひとりがこの先も、彼らだからこそ為せる役割を担い、社会が、日本が、世界が平和へと近づく、make it better place となることを願って。彼らなら望んだことは何でも為せると、一切の疑いなく心から信じている。ノーベル賞の受賞すらも遠くない未来にと想像しているよ。次に集える機会には、たくさん感謝をお伝えできますように。








お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。