相田 冬二(Bleu et Rose)

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相田冬二賞2023審査委員長特別賞「錦戸亮」ステイトメント

相田冬二賞は、わたくしの独断で決定されていると思われがちですが、そんなことはありません。大晦日当日ギリギリまで、審査員たちの厳格で徹底的な合議が行われ、時には殴りあいにまで発展することもあります。もちろん、わたしも審議に参加していますが、誰が受賞するか、12月31日の発表直前まで、ほんとうにわからないのです。 「審査委員長特別賞」は、あらかじめ候補者を明示することなく、わたくしの独断で決めることができる唯一の賞です。毎年あるわけではなく、どうしても、という時だけ、事前に発表

    • 亀梨和也という怪物が、映画を監禁する。

      アイデンティティと多様性が互いを刺し違える狂気の時代に、三池崇史は本作を突き付ける。 『悪の教典』以来の傑作と呼ぶべき『怪物の木こり』の尋常ならざるクオリティは、亀梨和也という怪物が一手に支えている。 キャスト全員が抑制した芝居となっており、それは三池演出による統制もさることながら、亀梨和也の非凡な存在感に、共演した者すべてが感染した結果と言えるかもしれない。 亀梨和也の演技はいつだって、わたしたちに【誰かが誰かを演じるとは、どういうことなのか?】という命題を示してくれ

      • 瞼の裏を洗う音、声、言葉。Cornelius『夢中夢』

        Cornelius 『夢中夢』  まず、構成に唸る。歌を二曲、インストを一曲。このセットを三つ。そして、最後に歌。  アルバムタイトルに示唆されている円環が結ばれる。  小山田圭吾の鼻にかかったチャイルディッシュな声が、丁寧にほどかれ配置された音と隣り合わせにあることで、一瞬、どちらが歌で、どちらがインストなのか、わからなくなる。  音は、自ら歌っている。鳥がさえずるように。水が流れるように。風がそよぐように。わたしたちの肌を、こゝろを撫でる。生き生きと歌っている。  声は

        • 俳優・井口理は、文学である。無名のカリスマとしての映画『ひとりぼっちじゃない』

           行定勲監督の『劇場』。カリスマ的な劇団主宰者を演じた井口理は、他の出演者とはまるで違う異彩を放っていた。主演の山﨑賢人と松岡茉優が、かなり作り込んだ芝居だったこともあるかもしれないが、井口は何もしないでただそこに居ることそれ自体が存在感となって、観る者のシコリになるような趣があった。  彼がミュージシャンとしてカリスマ性があるから、かどうかはよくわからない。King Gnuの楽曲は何曲か聴いたことがあるが、井口のパフォーマンスについては全く知らない。だから、これから書こうと

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        • こめんと
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          新海誠ひとりきりの卒業式『すずめの戸締まり』

           数はさほど多くないだろうが、『君の名は。』(2016)以降の作品に違和感を覚えている新海誠ファンもいることだろう。  お気に入りの作家がブレイクを果たすと、置いていかれたような気がして、古くからのファンはさみしくなってしまう。これはアニメーションや映画に限らず、どんな分野でも起こることだし、こうした(ありふれた)喪失感こそが新海誠的、と言えるかもしれない。  それは、他人から見れば小さなさみしさに映るかもしれないが、本人はそれなりに傷ついている。いや、これは、かなりの喪失感

          新海誠ひとりきりの卒業式『すずめの戸締まり』

          岩田剛典的なめらかさについて。あるいは「モノクロの世界」

           岩田剛典「モノクロの世界」は、未練のうたである。  愛しい相手は死別した可能性も僅かにあるが、ここではお付き合いが終焉を迎えたと考えたい。そのほうがしっくりくる。うたには「あなた」が立ち去った後のニュアンスがあるし、岩田剛典もそのようにうたっている。  「あなた」のいない世界。それが「モノクロの世界」である。  つまり主人公は「あなた」と出逢う前も「モノクロの世界」を生きていた。そして、いまも「モノクロの世界」を生きている。  色彩(いろ)が存在した世界は、「あなた

          岩田剛典的なめらかさについて。あるいは「モノクロの世界」

          初心。

          大好きな絵本作家の原画展をみに、吉祥寺まで足を伸ばす。 今日が最終日。仕事がつまっており、何度かあきらめかけたが、なんとか駆けつけることができた。 小さな小さな絵本屋さんの壁に、18点。カラー作品の実物をみるのは初めて。 寸分たがわず想像どおりだった。 サイズも。色彩も。テクスチュアも。作品とわたしの距離感も。 ちょっとこわいぐらい。でも、あっけないほどに、イメージそのままで、その人の絵はそこにあった。 吉祥寺には気になるお店がたくさんあるが、脇目もふらず、西荻窪に向かう。

          藤井風「花」は、輪廻のうたである。

          【輪廻】 藤井風「花」は、輪廻のうたである。 明るく弾んだミディアムテンポには、ライフタイム(一生)を讃えるビートがある。だから、一聴するとポジティヴィティだけを受けとるかもしれない。 だが、少し耳をすませば、動悸を思わせる規則正しさがライフタイム(寿命)のメタファーであることに気づくだろう。そう、あなたもわたしも限定された時間を生きている。 わたしたちのライフタイム(生涯)は、そのようなものである。長くも短くもない。曲のなかで歌われているように、ただ儚く尊い。 ま

          藤井風「花」は、輪廻のうたである。

          2013年の俳優中居正広論

          2013.8.4.執筆 俳優中居正広論 相田冬二 ◎  あの「模倣犯」から既に11年が過ぎていることに、わたしたちはたじろがずにはいられない。「シュート!」を初主演と捉えると、彼はこの20年のあいだにわずか4本の主演映画しか残していない。このビクトル・エリセなみに寡作な俳優を前して、わたしたちが紡ぎ出せることばは果たして、この世界に存在するのだろうか? しかし、こうした絶望に向き合うことからしか、中居正広という存在について語ることはできないだろう。  彼はドラマに主軸

          2013年の俳優中居正広論

          『春に散る』の横浜流星は、大文字の「現代の若者」を体現する、近年稀に見る逸材だ。

          1 瀬々敬久監督の『春に散る』は、プロットだけ見ると、よくあるボクシングものだ。 現役時代、挫折した元ボクサーが、才能と意気に溢れる若者のために、コーチとして、もう一度、立ち上がる……わたしたちは、そんな拳闘映画を沢山観てきた。もはや見飽きていると言ってもいい。 ところが本作は、違う。俳優たちの演技が、ありふれた設定を裏切っていく。佐藤浩市が横浜流星を導く物語だと思っている人も多いのではないか。逆だ。これは、横浜流星が佐藤浩市を日の当たる場所に連れていく様を見届ける作品

          『春に散る』の横浜流星は、大文字の「現代の若者」を体現する、近年稀に見る逸材だ。

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          まるで まるで あなたのようだね

          まるで まるで あなたのようだね

          パフェの定義。

          パフェとは何か。 一、 パフェは華美であってはならない。高貴でなくてはならない。いずれ朽ち果てるからこそ、煌めく品性を有していなければいけない。 二、 パフェは凝縮されていなければならない。つまり、洗練された単純さに到達していなければいけない。 三、 パフェは緊密かつ軽やかな関係性を構築していなければいけない。密室にあって、なお健やかでいる状態こそがパフェの美徳である。 四、 パフェは繊細でなければいけない。豪快な勧誘ではなく、神経を震わせるような誘惑でなければいけな

          横揺れの文学宣言。宮﨑駿『君たちはどう生きるか』

          鳥!鳥!鳥! 唯一のビジュアルに嘘はない。 宮﨑駿『君たちはどう生きるか』には、ヒッチコック『鳥』を蹴散らさんばかりに大量の鳥が登場する。 それは凄まじい数であり、具体的な展開に関与する。 もちろん、鳥は主題のメタファでもあるが、それ以上に宮﨑駿が啖呵を切っているように感じられた。 “おれが創ってるのは、鳥のフンみたいなもんなんだよ!” 自虐ではない。正々堂々「文句あるか?」と詰め寄っている。鳥のフンの何が悪いんだ? と、上機嫌で好戦の構えだ。 ベルイマン『ファニー

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          女のひとになりたいと思ったことがある。ホン・サンス『逃げた女』について。

           女のひとになりたいと思ったことがある。何度も。何度もある。  ここ数年は思わなくなったが、以前は、女のひとになったら、世界をどんなふうに感じられるのだろう、そして、女のひととどのように接することができるのだろう、女のひとと同性として友だちになるのはどのような感覚だろう、女のひととして物事を考えるのはどんな感触だろう、女のひととして生きるのは、女のひととしてゆめを見るのは、女のひととして甘いものをいただくのは、女のひととしてワインを味わうのは、どんな作用をもたらすのだろう、そ

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          ワインは、わたしたちを隣人にしてくれる。ホン・サンス『逃げた女』について。

          『逃げた女』  ワインは、フランスやイタリア、ドイツやカリフォルニアだけで飲まれているわけではない。そう、高名なワイナリーのある土地のみで愛されているものではない。全世界で親しまれている。言うまでもなく、欧米だけでなくアジアとも親和性が高い。だが、外国映画を観るとき、つい、この視点を忘れがちだ。  たとえば、わたしたち日本人が、日本酒やビールばかりを口にしているわけではないように、韓国の人も、マッコリや焼酎だけをたしなんでいるはずもない。  ワインは、とても身近な存在だ。

          ワインは、わたしたちを隣人にしてくれる。ホン・サンス『逃げた女』について。

          冬の日の佐藤健。