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もしもあの日に戻れたら

  おなかが痛くてトイレに駆け込む。子供のころから腸が過敏で、ちょっとした心配事やストレスですぐにおなかを下す。おなかが痛いときは何かしらピンチに陥っている時なのだからか、普段は「結局神様なんかいねえよな」とか言っているくせに、トイレでだけは腹痛に身をよじりながら神様に祈ってしまう。
 「おなか痛いよう、このところ辛い日が続くよう、神様しんどい、助けて……」
 トイレの神様は毎日きれいにしてたらべっぴんさんにしてくれるって歌ってたけれど、他人の悪意や乗り越えられそうもない仕事の落としどころ、直視したくない自分の弱さなんかは当然解決してくれるでもなく、ただ息をひそめて個室で唸るだけだ。
 便座の上で上半身を折り曲げたまま、神様をあてにするのを早々に諦めた私が次にするのは、戻りたい「あの日」を夢想することだ。
 
 新型コロナウイルスにかかった数日前に戻って、外出を取りやめて細心の注意を払って生活していたら、楽しみにしていた旅行に皆と行けていたのに。
 内定をもらって教授の推薦状を提出した会社を蹴ってまで、別の会社に行くことを決めた日。あの日最初の決断通り就職していれば、あるいは精神疾患を患うことなく順調にキャリアを継続できていたかもしれない。
 浪人して地方の国立大学を受けるか、自宅から自転車圏内の大学を準指定校推薦で受験するかを決めた日。浪人してでも遠くの総合大学で学んでいれば、もっと広い視野と自立心を持って今とは違う人生が待っていたに違いない。
 好きな人に告白してしまったあの日。既にその人は相手を見つけていて、ただ伝えたいだけの自己満足のための告白。あんなことせずにいれば、それまでの仲の良い友人関係が壊れて、言葉を交わせなくなることなんてなかったのに。
 
 腹痛が収まるまで、次から次へと後悔は降りてくる。でもこうやって過去の選択に思いを巡らせてしまうのは実は腹痛のときだけじゃない。山崎まさよしの例の名曲じゃないけど、路地裏の窓、新聞の隅、明け方の町、桜木町で……トラウマのかけらが目の前を掠めるたびに、それらは突然私を過去の三叉路に引き戻す。
 
 おなかが痛いのは実質ほんの数分で、痛みと共にたらればの邪念も引いていく。
 
 今の私を自分たらしめているのは、その時々の選択の結果なのかな。
 いや、自分でもわかっている。大事なのはどちらの道を選んだかじゃない。日々の歩幅、息遣い、眼差しが進む方角を決めていたんだ。どの扉を選んでも、辿り着くのはきっと今の場所。いつまでも個室にうずくまっているわけにはいかない。
 
 そろそろパワハラで有名な呼吸器内科のT先生の気管支鏡検査が終わる時間だ。何を言われても意見聴取して、コメントをもらわなくては。後からこの日このタイミングに戻りたいなんて思わないよう動かないと。たくさんの後悔を過ぎてたどり着いた今こそが「私の人生」なんだよな。と気合を入れ直したところで、いやでも昨晩古い厚揚げ煮食べてなきゃこんなおなか痛くならなかったのかもな、などと矛盾したことを考えながら個室の引き戸を開けた。

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