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いつか見た風景 86

「恋の冒頭の導入部」

 恋多き人生だったとは到底言えない私のこれまでの人生を、何だか必死に取り戻そうとしているかのように、このところの私は新たな恋に余念がない。それも二つ同時に。分かっているよ、無謀だと言う事くらい。。それでもこうした冒険が私の脳内にもたらす計り知れない恩恵を期待しない訳にはいかないからね。


                スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス



「この年で二人の女性に同時に恋をするとは思わなかったな…」


 それは突然やって来た。ここ一年ゆっくりと互いの感情を育てて来たと言っても過言ではない私の大事な金曜日のヘルパーさんが、ある日所属する施設関連のレンタル介護用品を取り扱う会社の若い女性スタッフを連れて来た。そうか、彼女もか、彼女もきっとこれからの私の人生の光となるかも知れないなと瞬間的に理解した。そう、私の脳内には確かに新たな恋の閃光が走っていた。

「特に寝室のベッドの脇のポールですけど、留め具の緩みが激しいようで…」と彼女が言った。私のような老人が昼夜を問わず安全に掴まり立ちできるようにと床から天井に固定されたポールの事だ。我が家にも4つ、寝室とリビング、風呂場とトイレに設置されている。体力や気力が著しく落ちている日は確かに本来の用途として助かる事もあるけど、私の場合は創作ダンスやアーティスティックスクワット等の補助に、主には日々の密かな表現の場として活用している。

「あ、そうですね、アレを使って時々体操とかやってるからかな…」とほんの少し個人情報を開示した。いきなり私の全てを明かすのには迷いがあったし、何より会話の成り行きで相手の深層心理が探れたらと思ったからだ。お元気なんですねと、世辞を言いながらもポール本来の用途以外のご使用はお勧め出来ないと釘を刺された。まあ、互いに想定内の定石の一手と言ったところだろうか。


「深夜の創作ダンス劇場〜新たな恋の始まり〜」


「恋の始まりは晴れたり曇ったりの4月のようだ」と言ったのはシェイクスピアだった。当時の英国の天候なんか私なんぞが知る由もないが、きっと不安定な気持ちの浮き沈みを例えたかったのだろう。今の私の場合なら、そう「吹き荒れる二つの恋の嵐に、束の間安らぐ台風の目を探すのは容易ではない」って感じじゃないかな。何しろ6月に梅雨と台風が同時にやって来るくらいだからさ。

 それから、ついでにもう一つ「恋の駆け引きは想像力のエントロピーの増大に左右される」とか、ちょっと気取って言いたいところだけど、まあ、そんな事は後回しだな。とにかく目の前の状況をさ、一歩も二歩も前進させる事に集中しないといけないからね。

 彼女がポールの固定具合を調整し終わると、私に向かって茶目っ気たっぷりにこう言って挑発して来た。「いつもは、どんな感じでトレーニングとかされるんですか?」とね。つまり表向きはトレーニングのメニュー次第で危険度を確認したいと言っている。そうか、そうか、気になるんだな、もしかしたらこの私が並の年寄りには不可能な程の秘技の持ち主かも知れないと。とんでもないアーティスティックなポールダンスが、いまこの瞬間に見れるかも知れないと。

 金曜日のヘルパーさんが複雑な表情を讃えて、彼女のすぐ後ろで笑っていた。聞いてはいたけど、まさかあの話は本当だったなんて。実際にはまだ見た事がない私のポールダンスを見たい気持ちと、なぜ今このタイミングでという少しばかり嫉妬の混じった感情が見て取れる。そうか、それもそうだな、確かにそうだ。上手く乗せられたとは言え、初対面の彼女に直ぐになびくのはいかがなものか。例え彼女に心惹かれた部分があったとしても、時間をかけて培って来たヘルパーさんとの信頼関係を一瞬で失いたくはないな。


「新たな恋の冒頭の導入部だよ」


 そうか、そうだよ。全てを見せる必要はないんだ。ほんの触り、冒頭のほんの触りの部分だけでいいんだよ。本編を期待する導入部分が、彼女たち二人にどう作用するか、それはそれで見ものじゃないか。彼女たちのどちらかが、ある日さり気なく私に囁くんだよ。この前の続き、是非見せて欲しいんですけどって。

 昔も今も 
 その瞬間は突然やって来る
 幼き夏の日の初恋も
 覚悟の秋に生涯を誓った日も
 冬の始まりに君が逝った日も
 春が過ぎ
 また春が過ぎ
 それは夏の匂いが微かに湧き立つ
 その日にやって来た
 私の最後の
 二つの恋の始まりが

 かつて詩人のアルチュール・ランボーが言った。人生は、誰もが演じなければならない道化芝居だと。二つの恋は、私の今に本当に相応しいだろうか。人生の道化芝居の最終章に。その冒頭の導入部にとして。



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