いつか見た風景 71
「脳内、サーカス、トラベル、ガイド」
私は見たものを全て覚えている訳ではない。記憶したはずのものを全て思い出せる訳でもない。それからもっと大事なことだけど、私には思い出したものを勝手に組み換えてしまう癖がどうやらあるらしい。
スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス
脳内を旅行するガイドブックを作りたいから手伝って欲しいって出版社から依頼があったんだ。お決まりの定番ツアーじゃなくってさ、自由気ままに在りし日の大事な最高機密の記憶ファイルを探る旅物語を。情報操作、隠ぺい、拡散を図る巨大な謎の組織と戦い、幾度も想定外の裏切りを目の当たりにしながらもサスペンスフルでノスタルジックに展開するその旅は、きっと誰もの興味も惹くだろうからって言うんだよ。だけどさ、実際いつもの平凡な私の日常のさ、一体何がそんなに面白いのかね。
「そんな感じで本当に大丈夫なのかね?」
「大丈夫です。自由で、気ままが、旅の醍醐味ですから」
「これで時々、不安になったりもするんだよ」
「でもそのスリルを楽しんでらっしゃる。まるで、ご自分の秘密を探る秘密のエージェントのようにね。それに時には周りの方たちと一緒になって戦って…」
「本当は迷惑かけてないかって、正直心配な部分もあるんだよ」 「心配ないです。姉も言ったました。タカオさん、サイコーだって」
褒められたりおだてられたりすると、やっぱり私も弱いから、ついつい引き受ける事にしたんだよ。お気に入りの金曜日のヘルパーさんの妹さんが小さな小さな出版社をやっていて、今度老人たち向けに全く新しいエンターテイメントなシリーズ本を発刊するそうなんだ。タイトルはまだ未定なんだけどね。
これまでは介護支援活動の記録とか医療サービスの紹介とか、色々と真面目で専門的な本が多かったんだって。家族を含めた介護する側のエピソードやお悩み相談なんて記事も扱っていたらしいよ。それで何かもう一つ、大胆にスパイスを加えたいって思い立ったらしいんだ。とにかくそれでさ、実験的に私に白羽の矢が立っちゃった訳なのよ。
大脳皮質の辺り一帯を私は「サーカス脳」って呼んでいるんだよ。様々な情報が行き交い踊り出すエリアだからね。主には言語や高度の思考を担っているらしいんだけどさ。ある種のストーリーだってビジョンだってここで様々に構築されているんだよ。どこぞの国の怪しい情報機関が集まっている場所もやっぱりサーカスって呼ばれているらしいよ。まあ、とにかく手始めにその辺りに出向いたらどうかなって彼女に提案したんだ。
まあ、とにかく取材を受けるなんてこれまでの人生でなかった事だからさ、やっぱりちょっと緊張気味だよ。コレは下取材だから気楽に何でも話して下さいなんて言われてもさ、それに本番じゃ丸々1日密着するらしいんだ。何だか気が重いね。とにかく今日のところは彼女のスマホカメラに向かって、今週私に起こったちょっとしたミステリーを物語る事にしたよ。
雨が多かっただろう今週は。えっ、そうでもなかったの? まあ、私の中では雨がちょっと多かったんだよね。いつもの週に比べるとさ。意味があるんだよそこにはちゃんとね。雨が多い日が続くとさ、私はすっかり既に引退した諜報部員になっちゃうからさ。エージェントだよ、エージェント。さっき君も言っていたじゃないか。切り替わりが早いって? そういうものなんだよ私の場合はね。
それで、火曜だったか、水曜だったか、とにかく私は引退した諜報部員用のいつものツイードのジャケットに灰色のタートルネックでさ、青の薄いサングラスをかけてリビングでじっと待っていたんだよ。奴が来るのをさ。宅配業者に扮した奴がだよ。カモフラージュだよ。正体がバレないようにさ。奴は昔から私が信頼する数少ない仲間だからさ。名前はスマイリー、勿論コードネームだよ。大事な情報はいつだって奴が持たらしてくれるからね。
「お届け物です」と、モニター画面の中でスマイリーが見事に年配の宅配業者になりすました格好で立っている。黒のゴム製のレインコートに、ヨレた黒のレインハット。濡れたその右手には伝票らしい紙が握られていた。私が伝票番号を尋ねると、一度その紙に目を落とし、澱みなく9桁の英数字を読み上げた。間違いない、スマイリーだ。久しぶりの対面に私の鼓動が少しばかり高鳴っている。
エントランスのロックを解除したその瞬間だった。スマイリーの後方から痩せた女が小走りに入って来た。グリーンのトレンチ、髪は長くストレートで、目は大きく涙袋のカタチがいい。女がスマイリーと肩が当たったように見えた。その場に立ち止まり、二人は何か言葉を交わしている。女がスマイリーの手から小包をスッと抜き取った。少しばかり驚いたようなスマイリーの顔。気がつくと女は画面から消えていた。スマイリーが振り向き、モニター画面越しに私に向かって何か言いかけたが、諦めたのか黙って微笑んでいる。
それがスマイリーの姿を見た最後だった。どらくらいの時間が経っただろう。スマイリーが私の部屋にやって来る気配はなかった。胸騒ぎがした。一度外に出てみようか。外に出て確認すべき事があるはずだ。しかし私は明らかに迷っていた。外に出て何がある? 今更どうしようもないじゃないか。きっとスマイリーは消されている。大事な情報も消えているはずだ。そう、そうだよ、それが現実と言うものなんだ。
気がつくとリビングの脇のライティングデスクの前に私は座っていた。最近古道具屋で見つけた木製の年代物の机。引き出しの具合はあまり良くなかったけど一目惚れして購入したものだ。寝室は狭いからリビングの脇に置いてある。机の上には、もう一度読もうと本棚から抜き出して来た古い本が10冊ほど無造作に重なっていた。色々な調査に使ったノートや走り書きのメモ、未整理の写真に、それからまるでDMの広告のように暗号化された報告書。どれもこれも、今や私の大事な古い記憶たちと言っていい。
スマイリーとの記憶が窓につたわる雨粒のように私の頭から流れ出し、途中で泡のように消えて行く。瞬間、イギリスの作家のジョン・ル・カレの言葉がその泡の底から浮かび上がって来た。「机というのは、そこから世界を見るには危険過ぎる場所である」って言ってた。そうだった、忘れていたよ、大事な事を。振り返るとリビングのテーブルの向こう側に、見知らぬ女が座っていた。スマホのカメラを私に向けて、その女は静かに微笑んでいた。
「机の足に自分の左足の小指をぶつけた話しをさ、その机の足に使われている木材の生産地の話しから始めるタイプの老人なんだよ、私はさ」と私は言った。
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