「あり得たかもしれない」世界への想像力と人間中心を乗り越える長期思考 [芦生の森・美山町フィールドワーク 体験レポート]
こんにちは!
あいだラボに参加させて頂いている永田です。
昨年行われた京都における芦生の森と美山町のフィールドワークについて私的な感想をこちらに書かせて頂きます。別のnoteでフィールドワークの内容はレポートされているかと思いますので、私自身が印象に残った事項を主観的に書かせて頂きます。
少し時間が経ってしまったのですが、書きながら、森やフィールドワークでの対話の質感が蘇ってきています。
今回のフィールドワークに関心を持った経緯
スキー、山登りやリトリート等、様々な場面で森に入るのですが、「この森は良い状態の森なのかどうか」ということがずっと気になっていました。表面的には植生や季節によって森の「見え方」は当然変わっているのですが、それが見えない生態系のシステムとしてどのような状態にあるのかに関心を持っていました。その一つの重要な要素として菌類の果たす役割に興味を持ちました。
また、芦生の研究林の取り組みが、京都大学が1921年に99年の地上権契約を結んだことから始まる、100年の計であることにも関心を持ちました。少し前に「Good Ancestor」という、いかに「長期的な思考」が現代において欠落しているかに焦点を当てた本を読みました(下記の引用のような問題意識です)。生態系はまさに長期で考えないと正しい解が出てこない領域かと思い、それを実践している取り組みであることに興味を持ちました。
「あり得た」世界に関して
坂上さんの体験レポートにも書いてある通り、芦生の森はシカ等の有蹄類による植生の過食により、植生の多様性の減少等、森林崩壊の危機に瀕しているとフィールドワークの中で説明を受けました。
「ただ普通に見ると、多くの人は良い森だなと思うと思います」ということを赤石先生の言葉が印象的でした。「ただ普通に見る」ことに加えて、見えないものを見に行く、その想像力を働かせて身体感覚にまで落としていくことが、今の社会では重要なのではないかと感じました。この事を実現するには、身体感覚だけを頼りにするのには限界があり、時には知識による情報と組み合わせてこうした感覚が得られるのなのではないかと感じます。
さて、森の中では、シカによる植生の過食を防ぐために、2017年頃から一定の区画に柵を設けてシカが侵入できないようにし、植生の回復を見る実験が行われていました。大小様々なエリアでその実験が行われていたのですが、柵が設けられていないエリアとの違いは一目瞭然でした。柵がないエリアでは下草のようなものが食い荒らされ地面が露出し茶色がかっているのに対して、柵の中では様々な高さの草が生い茂り、緑で溢れていました。それでもまだ植生が回復しきっているという状態なのではないのかもしれませんが、私の目にはその違いは明らかでした。
この明白なコントラストは、私たちが何かアクションをとっていれば「あり得た」世界を人に提示しているようで、とても印象的でした。
スペキュラティブ・デザインという領域で、未来の社会を想像してそれをデザインやアートの形で表現することで、鑑賞者や社会に警鐘を鳴らすことが行われていますが、そのことを実際の中長期の実践によって現実に示していると感じました。「あり得た」世界を見ることは少し切ないことであると同時に、人々にその実感による行動を促すものでもあると感じました。少し違うかもしれませんがぼんやりと頭をよぎったのは、風の谷のナウシカの漫画の中で、ナウシカが腐海の植物を腐海とは違う環境で育てたことにより、その真相に気づいていったシーンでした。
自然の上に文明を構築することのプロセス
もう一つフィールドワークの中で非常に印象に残っていることが、美山町に新幹線を通すことに関する地域の方々との対話でした。
このプロジェクトは現在金沢まで開通している北陸新幹線を延伸し、京都まで繋げるというものですが、その延伸ルートの候補の中に美山町が入っています。新幹線を開通するには多大な環境負荷がかかり、騒音や景観の問題等も引き起こし得る計画です。このことに対して、地域としてどう考えるか、美山町のロッジの中で参加者10名程で夜にディスカッションを行いました。
当然ながらこの合意プロセスは非常に複雑なものであり、政治的な判断、経済効果をどう見積もるか、生態系の中長期的な影響、地域に暮らす人の生活への影響等、様々なアングルでの論点が出ました。再生可能エネルギーの世界ではNIMBY(Not In My Back Yard)という言葉がありますが、地球環境に貢献することはわかっていても、「自分が直接関係があるところには設備を入れてほしくない」という趣旨の概念であり、受益者とそれを負担する人が直接リンクしない難しさも今回議論されました。
この対話の中で、参加していた方から、東北大震災後に防潮堤をつくるという話が持ち上がった際に、賛成派か反対派かという対立構造ではなく、この豊かな浜の未来をどう残していきたいかという観点から、あらゆる立場・意見の包摂するかたちでプロセスが上手にデザインされることで、防潮堤を海岸線から後ろにセットバックしてたてるという、関係者がみな納得できるような形での合意形成が導かれた気仙沼の事例の共有がありました。
この話題によって、新幹線の問題そのものから、「社会インフラに関する合意形成をどうデザインするか」という観点に議論の目線が切り替わったのですが、インフラの大小問わず、二項対立を生まない合意形成のプロセスデザインが、より民主化かつ洗練された形で実現できないものかということを考えていました。政策形成の世界ではpolipoliのようにテクノロジーで民意を集約するプラットフォームが出始めていますが、そうした基盤上の対話の中で、「利害が折り合わない中でもどう対立ではなく中庸な解を導いていくか」ということをもっと方法論として洗練させていく必要があるのではないかと思いました。
現代社会においては今形成されている社会基盤は所与のものであり、誰もがそれを利用していることを当たり前に考えていますが、このことが人間が自然の上に生きている感覚を希薄にさせるような気がします。今回のような自然と利便性の様々なトレードオフが起きる社会資本の形成の議論に人々が参加することで、「自然の上にどう文明をつくるか」ということに関して身体感覚が生まれ、そのトレードオフの上に今人間がいきている感覚が芽生えるのではないかと議論をしながら思いました。
おわりに
…とここまで色々と書いたものの、とにかく美山町や芦生の森は美しかったです。また必ず訪れたいと思いました。
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