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『フェイスパックが剥がれない』/掌編小説

フェイスパックが剥がれない。


夜通しつけたまま寝てしまったのが悪かった。
たくさんの美容成分を含んでぷるぷるだった白いパックは、今朝私の顔の上でひからびていた。


お風呂上がりにフェイスパックをつけて、ベッドの上でASMR動画をみていたら、いつの間にか寝てしまったようだ。
うとうとと、顔の上に何度もスマホを落として目が覚めたとき、起きあがってパックを剥がすべきだった。

間の悪いことに今日は月曜日。週の始めから仕事を休むわけにはいかない。
世のサラリーマンがもっとも憂鬱な月曜日の朝、例に漏れず、私も毎週憂鬱だった。
今の仕事が嫌いだった。
顧客の家や会社を地道にめぐり、新型の浄水器をすすめて契約をとる。
口下手で、顧客の気分をよくするお世辞や気のきいた小話ひとつできない私は、明らかに適性もなかった。
最近は暇さえあれば転職サイトをチェックしている。だけどこの時代、自分のやりたい事だけをして生きていける人がどのくらいいるだろうか?
立派な経歴も学歴も持たない私に、現実は非情だった。


顔を洗えば剥がれるかもしれないと、熱いシャワーを浴びてみたが、干からびたパックは潤いを取り戻しただけで、私の顔にピタッとはりついたまま、剥がれる気配もない。
そろそろ家をでないと遅刻してしまう。このまま出勤するしかないのだろうか。
こんなパックを付けたまま、とても満員電車には乗れない。私は不織布のマスクをつけて顔を隠し、タクシーを呼ぶことにした。予定外の痛い出費だ。


30分後、会社の前までたどり着いた私は、こそこそとおでこを左手で隠しながらタクシーの支払いを済ませ、いつものしみったれたオフィスに入った。

「おはよう」
「おはようございます」
「マスクして、風邪でもひいたのか?」
先に来ていた同僚たちに挨拶される。
マスクのことを聞かれるが、奇妙なことに、顔にくっついたままのパックについて聞いてくる人は誰一人いなかった。

私は混乱しながらも、意を決してそのまま顧客回りに出た。できることなら一日中オフィスの机にかじりついていたかったが、「成約は現場でしか生まれない」とかなんとかうるさい上司が、見えない圧をかけてくるのがいつものことだった。

しぶしぶ訪問した先だったが、今日は珍しく一件目で新しい浄水器に興味を示す会社に当たることができた。私は、通された応接間の透明なガラステーブルに資料を広げ、商品のアピールポイントを並べまくる。

なんだろう。今日は不思議と滑らかに言葉が出てくる。かけるべき適切なタイミングで口をつく、適切な言葉。いつもはたどたどしい商品の説明も、テンポよく流れる音楽のよう。
なぜかすらすらと出てくる雑談と小気味よいジョークを挟みながら、和やかな雰囲気で話は進み、気がつけば私は最新型のハイグレード浄水器の契約書に判をもらっていた。


「すごいじゃないか。君もやっと芽が出たね。よかったよかった」
会社に戻って成約の報告をすると、上司は嬉しそうにそう言って、壁に貼り出された私の成果グラフに花丸をつけた。

「調子いいじゃない」
私より五年先輩の女性に声をかけられた。
「ありがとうございます」
私は口角をあげて目尻を少し下げる。
苦手だった愛想笑いもうまくいく。顔の筋肉が自動で動いてくれるようだった。
この先輩は、先月もその前も高額な浄水器を売り上げて、県内でナンバーワンの売上高を叩き出すスーパー社員だ。
コミッションという、成約数に応じて高い給与がもらえる形態の社員となった先輩は、来週新しく建ったばかりのタワーマンションに引っ越すらしい。


普段は近づく機会もない先輩にはじめて声をかけられた私は嬉しかったが、そのとき、先輩の顔にぷるぷるとしたフェイスパックがついているのを見てしまった。

その日の帰り、ドラッグストアに寄って大量のフェイスパックを買い込んだ私は、もう少しこの仕事を続けることに決めた。


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